この本、実はごくあっさり言って、ノスタルジー本と言って差し支えない内容なのである。もし読者が、「なんだよ、要するに昔は良かったって話じゃないか」という感想を抱いたとすれば、ハイ、それ、大正解。しかるに、他人から見ればこの「要するに」の四文字で済んでしまう構えの中に著者が込めた思い、その全体重のかけ方が、まったくもって半端じゃないのだ。
【そもそもラーメンは、厳選された素材がどうのという料理ではない。どこかウソっぽいのに、しみじみと旨いというキラキラした秘密を持っていた。その「悪」の魅力が、ラーメンの精神的スタンスだった。それがあってこそ社会の荒涼とした現実と自分との関係を噛みしめることができる、実存主義的食べ物であった。】
「キラキラした秘密」というのがいい。いま、名店といわれるラーメン店の多くが所有しているのは、どこもキラキラなんかしていなくて、単なる「企業秘密」だったりするはずである。そんな店に長時間行列してラーメンを食べることのバカバカしさ。これは筆者の個人的な感想だが、だいたいラーメン店に行列している連中の何がいちばんイヤかって、完全に自足しきったその様子こそイヤなものはない。「ったく、いつまで待たせんだよコラ! さっさと食わせろ」という苛立ちが皆無なのである。これはもう信者だ。ちなみにこの章の表題は「新興宗教とラーメン」である。
聡明な皆さんはすでに察しが付いていると思うけれど、『ラーメン屋の行列を横目にまぼろしの味を求めて歩く』は、高級なもの、本格的なものをその高みから下ろし、逆にB級料理を称揚するといった、ルサンチマン爆発! というような本ではまったくない。それどころか著者は、ラーメン店に行列する人々が一生口にすることがないような美味の数々を、これまでの人生でさんざん口にしてきた人である。京都祇園で繊細極まりない鯛の造りを食し、近江の「招福楼」、東京・新橋の「金田中」など名立たる名店の味を懐かしみ、地元民以外はなかなかありつけない敦賀の「水魚」を、口を極めてほめちぎって、「あんなものがいいのかねえ」などと言わせながら、満更でもない顔で出させてしまう。
で、そうした人々はふつう、「グルメ」と呼ばれるわけだけれども、勝見洋一という人が断じて「グルメ」でないのは、膨大な足し算の山の上に立っているのが「グルメ」なのに対して、もう一度書くが「マイナス×マイナス=大いなるプラス」という「飛躍」をその特徴としているからだと思う。
「飛躍」するためには落ちなければならない。体を張って、自分の舌と体で毎回々々、キッチリと「ああ、こんな味じゃない。これも違う。とうとうこれもまぼろしになってしまったのだ」と、落胆しなければならない。
ホンモノ志向といいながら、なんだ、世の「グルメ」たちが食っているものなんかニセモノだらけじゃないか。オレは長年、ホンモノを食ってきたんだから騙されないぞ。そういう本では、まったくないのだ。むしろここにあるのはホンモノだらけの世の中に対する嘆き節。ホンモノの食材をホンモノの教育を受けたエリート料理人が調理したら、あら不思議、ぜんぜん味がしないってどういうことなの?
「下手味がないからだ」と、さしあたって著者は言うだろう。どこかインチキめいた、正統的な料理の手順からすればまったく推奨できない、しかしアレとソレをこっそり混ぜちゃうと、なんと! どうしてこんな美味が生まれるのか。そういうことをかつて料理人たちはちゃんと知っていたし、しかしそれはもう、「まぼろし」になってしまったのだと。
【子供のころ、今の銀座並木通りのはずれ、橋を渡ればすぐ新橋駅の汐留川の傍らに、屋台の「紙カツ屋」が出た。豚肉を紙のように薄く切って叩き伸ばし、衣をつけてカリカリに揚げた儚いトンカツの味が懐かしい。つまり衣をいかに旨くするかで、これはカツ丼の旨さとも共通する。分厚い肉など夢だった頃の、かえって味覚の本質を突いた旨さだ。そして私はやがてレバカツの味に目覚める。カツとは衣が主役なのだ。とその途端、だんだん世の中が豊かになって厚い肉が主流になったのか、紙カツ屋は町から消えてしまったのだ。】
著者にとって味覚とは、徹頭徹尾、個人的なものである。他でもない、「この私」がその時、その土地で、その年齢で食したものが、個人を成形する。「まぼろし」を求めて「この私」が彷徨すれば、どうしたってそこに出現するのは少年時代、幼年時代の記憶ということになる。
【しかし、チョコレートを食べて子供のころの味覚を取り戻したいと期待するときがある。
自分の体の中に確かにあった、三まわりも四まわりも小さい、かつての自分の人体を感じたいのだ。
甘いチョコレートを食べる。
すると体の中のもっと小さな自分も「おいしい」と呼応する。その声をいつまでも聞いていたい。】
「ニューヨークのソーダファウンテン」と題された章の最終部分だが、めずらしく改行の多い(改行とはすなわち「詩」である)このパッセージの豊かさ。そして狂おしさはどうだろう。
いま、われわれの「体の中のもっと小さな自分」はどこにいるのだろうか。その「小さな自分」を社会の中で飼いならすことができず、思わず山手線の中でプリンを食してしまったとしても、ラーメン店に行列するよりはるかにそのほうがいい。行列はいつだって多数なのであり、こっちはいつだって一人ぽっちなのだから。
ホンモノばかりに囲まれた世の中で、ヘルシーな料理に舌鼓を打つことの歪み。「それのどこが歪んでいるのか?」と人は言う。医食同源じゃないか。冗談じゃないよ、旨いものというのはすなわち「毒」であり、人間は「毒」をいっぱい食べてさっさと死ぬようにできている、とこの本は応える。
さっさと死にたくはないのだけれど、高級食材に囲まれて、おいしいものを食べて、同時に健康になって、でも時々無性に刺激の強いラーメンだけは食べたいなぁなんて、そんな虫のいい話が支持される世の中は厭だ。そういう感覚を筆者は共有したいと思う。
『ラーメン屋の行列を横目にまぼろしの味を求めて歩く』。こんな長いタイトルは憶えられないって? いや、憶えなくてよいのです、「ホラ、なんだっけあの長いタイトルの……」と、それでじゅうぶん。この長いタイトルを、この本を読んだという経験を「この私」のものにするために、そっと舌の上で何度か転がしてみれば、ある日スッとすべての言葉が出てくることでしょう。
これは久々に、ほんとうに抜群に「美味しい文章!」でありました。