ライターでもなく、音楽評論家でもなく、肩書〈ロック漫筆家〉である。文章で笑わせるだけなら、「ひょうきん評論家」でも「おもしろライター」でもいいと思うのだが、どうも違うらしい。芸があるということだとは思うが、どんな「芸」なのか?
著者初の単行本にして、スクラップブック形式の本書に収録されたコラムやレビューの対象は、映画や本もあるけれど、主となるのは音楽であり、ロックである。ロックといっても色々とあるので例を挙げると、小林旭(アキラもロックだ)にサザンオールスターズにクレイジーケンバンド、ジョージ・ハリスンなど、誰もが知る人たちもいれば、逆さ吊りの状態で演奏するバンド「ジョニー」、フリーマーケットで売られていたテープを制作会社が身元不明なままCD化した、アメリカの「詠み人知らず」なバンドのように、どマイナーな人々までヴァラエティに富んでいる。音楽の歴史や全体を見渡そうというディスクガイド的な視点からみれば、てんでばらばらな顔ぶれである。ところが、読み進めて著者の視点や価値観がわかるにつれて、統一感があるように思えてくるのだから、あら不思議。
そんな不思議な感覚を生み出す肝となるのが、著者の物事をおもしろがる姿勢だ。メジャー・マイナー問わず評の対象から、遊び心や、いい加減さ、緻密さ、かっこよさ、愛らしさ、ばかばかしさなど楽しめる要素を発見する。それをイメージと違う、不謹慎だ、これは音楽ではないなど硬いことを言わずに、わかりやすい言葉で表現するのが、実にうまい。独学で作曲を学び、作品を発表した盲目の音楽家ムーンドッグを〈「個性」という字が、立って、歩いて、飯食って〉と評し、クレイジーケンバンドのギタリストによるソロユニット、「小野瀬雅生ショウ」のアルバムに漂う、洋楽的なイメージをラジオ・車・テレビや映画館、友人の部屋に当てはめ、〈洋楽とは、ロックとは、いつもそんな風に“思いがけず現れた”「外国」のことである〉と親しみを込めて表す。本人は〈原稿を書くという行為は、限りなく“大喜利”で頭ヒネって答えるって事と等しい〉というけれど、座布団10枚では済まないほどに、思わず膝を打ちたくなる表現でいっぱいなのだ。また、本文中にはアーティスト名や作品名などがどんどん出てきて、情報量も多い。でも、著者は〈ロック漫筆家〉である。単なる知識を自慢するための情報ではなく、話をふくらませるための「ネタ」として使っている。だからこそ、知らなくてもどのような意味合いで出されているのか感覚的にわかるし、知っていればもっとおもしろく感じられるのではないかと、興味も持てる。
とりわけすばらしいのが、1960年代後半ユニークなファルセットボイスによってアメリカで人気を博した、タイニー・ティムに関する文章だ。ショッピング・バッグに入れて持ち運ぶウクレレを弾きながら、記憶している20世紀前半のありとあらゆるポップソングを歌う、〈大きな鷲鼻にカーリーヘアー。顔にはおしろい、頬紅をぬり、スーツ姿〉の道化役。2000年頃に書かれた「タイニー・ティムとのある一夜」というコラムの中で著者は、ティムの歌に、安藤鶴夫『巷談・本牧亭』で描かれる、消えていった芸人たちによる芸と共通するものを見つける。それは、〈ニオイ〉である。現代との接点を失った男にとり憑いた古い音楽は、人気が無くなり年を取っても、常に彼の脳内で古びることなく〈今〉の音楽として記憶され続けている。だからこそティムの演奏には常に生々しい〈ニオイ〉があり、売れるための浮薄な「スタイル」ではなく、「芸」であったのだとする。1996年に66歳で他界したタイニー・ティムこと本名ハーバート・コウリー。彼が、最後までタイニー・ティムであり続けた理由が、著者の分析によって鮮やかに浮かび上がる。
主役となるのはあくまで作品であり作り手。相手を引き立たせるための、あの手この手の切り口による的確な評が、文章のおもしろさにつながる。おどけているように見えて、「俺が俺が」していない真摯な筆致が、意外と二枚目だったりもする(音楽家・小西康陽の帯文によると、著者本人の外見は〈背も高く、とてもノーブルな顔立ち。脚も長い〉らしい)。ロック漫筆家の芸とは、漫談というよりは漫才、しかもボケというよりは案外ツッコミ担当なのかもしれない。