大阪の宿である醉月にプライバシーということばはない。あるいはプライバシーということばの外延が現代のそれとはおおきく異なっている。
というような書きかたをすると小難しくてなんのことだか判らないと思いますが、ようするに壁が薄いのでどの部屋で会話しようとも筒抜けだし、自分の部屋にもしょっちゅう女中や旅客が出入りして、もし女の子なんか連れこもうものなら一夜にして周知のところとなるような宿だということです。旅館もホテルも鍵付きがあたりまえの現代に暮らすぼくにとっては、人間の関係がこんなかたちをしていること自体に驚きました。
主人公の三田くんは東京のほうからやってきた会社員で、副業に小説を書いて新聞社に売るという仕事をしています。かれは普段はだんまりで、宿の女中からは始めのうち、「けったいな人いうふたらあれへんなあ。何いふても、ふんふん云ふだけで、あれで何が面白いのやろ。」とすこし怖がられていました。酒がはいるとそこそこ口も廻るようになるので、長く逗留するうちにだんだんと仲が慣れてきます。
それで何をするかというと、とかく酒盛りです。小説のうち少なくとも十回は酒盛りの場面があるくらいで、みんな酒が大好きです。友人の田原、芸者のうわばみ(これは大酒飲みという意味のあだ名で、ほんらいの芸名はお葉といいます)とともに、醉月や淀川のまわりで飲みつづけます。うわばみはお酒がはいるとすぐ仕事を忘れてしまうこまった芸者で、得意技はコップ酒、それを麦酒でも飲むみたいに一気にやってしまう。無愛想な三田は酒だけはいけるくちで、それがうわばみの気に入り、ことあるごとにかれを飲みに誘います。一度など帰らねばならぬという三田が酒を受けないので怒り、かれに頭から酒をぶっかけた位ですからたいへんな人物です。
ところで三田はたいへんな好人物です。いちどかれが部屋にしまっておいた現金がなくなるという事件がありました。かれは自分が金を盗まれるよりほかの人間に疑いが向けられるほうが厭だというので表沙汰にはしませんでしたが、そのときべつの部屋に逗留していた野呂という男もまた金がなくなったと騒ぎたてるので、三田の件も露わになりました。けっきょく女中のうちひとりが男に誑かされて、貢ぐための金の工面に盗んだということがわかりました。とうぜんその女中は頸になったのですが、後日、三田の会社にその女中がやってきて、なにを言い出すかと思うと金を貸してくれというのです。三田はここでは何だからべつのところで話をつけようというと、いまかのじょが働いているすきやき屋まで足を運びます。とうぜん酒も出るのですが、かのじょの話を聞いていると、どうも三田がお人好しであるから頼れるのはあなただけだというようなことを言うのです。いかに三田ともいえど頭に来て帰ると言うのですが、去り際に、「つれなく歸って行く自分の態度を辯解するような心も動いた」。そこで懐から二拾圓を取りだしてかのじょの前にほうり出し、さっさと帰ってしまうのでした。
そのあと醉月にもどった三田は、おかみさんと話をするのですが、ここはすこし引用してみましょう。
「三田さん、おりかのやつ、ようあんたに顔が合はされたもんですなあ。」
人の物に手をかけた根性の曲つたものの、手ひどくどついて來て貰ひたかつたやうな意氣込で、何か痛快なことを期待して居るのは、言葉のいきにも現れて居た。
「僕もさう思つたんだが、本人は存外平氣らしかつた。おかみさんを始め、こゝのうちの人達はみな無事かつてきいて居ましたよ。」〔…〕
「そしてあんさんはおりかの居る家へ行かはりましたのか。」
「來ないかつて云ふもんだから、おりかさんのお酌で飲んで來た。」
「まあま、あんさんもよう出來たお方ですなあ。」
家中に響き渡るやうな大きな聲で、仰山に驚いて見せた。臺所で働いて居る者も、帳場に居る娘も、一齊に笑つた。
この話は物語の後半に置かれているのですが、ここまで読み進めていくと、引用部さいごの地の文が醉月の生活をうつくしく要約しているように思われて、グッとくることはまちがいありません。われわれにとって個人的な生活とはなんだろう、プライバシーとはなんだろうと考えさせるようなものではなく、あるひとつのプライバシーのかたちを知らせてくれる、友情というもののうえに成り立ったそれを見せてくれるという点で、わたしはこの小説をたいへん愉しく読むことができたのです。