いまの時代、理想に燃えて頑張っている人や仕方なく頑張れている人、淡々と目の前のことに対処できている人は幸せだと思う。問題なのは何もできない人だ。何をしていいかわからない人、何かしたいけれど力のない人は、どうしたらいいんだろう。本書に収録されている6つの短編には、そのヒントが提示されている。身動きできないときは、とりあえず自分の内面を掘り下げてみること。それって、簡単なことだろうか?
前進したり積み上げることができなければ、あとずさりしたり掘り下げるしかないわけだが、それだけでも、今日を生き延びるくらいの推進力は生まれるかもしれない。そして、その過程で突きあたる硬質なものが愛なのだろう。口あたりのいい博愛などではなく、たったひとりに向ける最も利己的で、最も痛みをともなう愛のことだ。
6つの短編に通底するトーンは、自分は人を愛せないんじゃないかという不安。たったひとつの愛ですら、成就させることがどれだけ難しいか。いや、たったひとつの愛だからこそ難しいのだ。誰かを愛するためには、別の誰かを捨てなければならないこともある。大量生産された薄味の愛でごまかせるはずもなく、私たちは、自分の中の悲しいほどの弱さと向き合うことになる。以下、3つの短編をピックアップしてみた。
●『愛について』
シートにもたれて雨音に身をゆだねていると、体の中で硬くなっていた何かが少しずつ溶かされていくのがわかった。昔何かの本で読んだが、雨降りが好きな人間は絶対的な力にあこがれる傾向があるらしい。たしかにそれは当たっているかもしれないな。雨はすべての人間に平等で、だからこそ常に程よい距離感をたもっているように思える
主人公は、ゼロへの回帰を求める男だ。とりたてて不幸ではないのに、どこかでボタンを掛け違えたような日々の中、同棲している彼女とも前へ進めない感じ。一人で雨を感じている今が一番落ち着くなんて彼女にはとても言えない、と彼は思うのである。なんて贅沢で小さな悩みだろう。なんて無力で普遍的な感慨だろう。
しかし雨は、絶対的な日常でありながら、別世界への唯一の扉になりうる。
この小説を読んだ直後に見たウディ・アレンの映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)は、非現実的で薄っぺらなラブコメディという印象だったが、唯一、パリの街に降り注ぐ雨には、奇跡を呼び寄せる確かな輝きがあった。この小説もそうだと思う。
●『Little People』
「日常というのはすごいものだなとしみじみ思った。周りでどんな妙な出来事が起こっても、自分に害がない限り、何もかもを引きずりこんでしまうのだ。そうして安定を作り出し、心の平穏を生み出してしまう」
主人公は、ある日を境に「小さい人たち」を目撃するようになる。頭がおかしくなったのかなと彼女に相談し病院へ行くが、疲れているんですよと言われるだけ。その後も「小さい人たち」は毎日現れる。特に危害を加えるわけではないが、自分だけにしか見えないのは不安だし寂しいと彼は思う。荒唐無稽でありながら平和な光景は、幻覚すらダイナミックに描けない彼自身の小ささを表しているのだろう。
だが、ダイナミックなのは、平凡きわまりない現実のほうなのである。この短編は、たった9頁で、奇跡的な至福の感触を描ききってしまった。逆にいえば、これは、自分にとってどうでもいい<その他大勢の人たち>が、自分とは関係のない場所で普通に幸せでありますようにという、エゴイスティックな祈りの小説なのだ。
●『終わらない夜に夢を見る』
「私が独りぼっちだったのは、自分のことしか見てないからだ。そんなので誰かとつながれるわけがない。誰かを愛せるわけがない」
つきあっていた二人が別れるまでの話だ。その経緯はとても誠実で思いやりにあふれている。それって愛なんじゃないかと思うほどだけど、結局のところ、二人は別れる。
ちょうどいい距離感で、寂しさをきっちり埋めてくれる都合のいい愛なんて、簡単には手に入らない。ずっと一緒にいても相手のことが100%わかるようにはならないし、自分のことを100%伝えられるわけでもない。思いの強さが違うかもしれないし、どちらかが変化したり、いなくなってしまうかもしれないし。そう考えると、愛の本質とは、片思いや別れなのではないかと思えてくる。
愛に深刻になる理由は、誰でもいいってことにしたくないからだ。私たちは誠実さと引き替えに、多くの時間を片思いや別れのつらさとともに過ごすことになるのだろう。この小説に充満する不器用な誠実さや、弱々しい優柔不断の片鱗を、宝もののように愛したいと思う。