胸が大きければグラビアアイドル、背が高ければモデルかスポーツ選手、というようなステレオタイプなイメージの先入観に悩まされている人は多いと思う。時には、体の特長を生かさない仕事に就くなんてもったいない、とまで言われたりして。しかし、こういうことに関しては、切り返し技を理論武装してしまえばいい。世の中にはもっと厄介な問題がある。それは、母親がふいに娘に投げかける、呪縛的なひとことだ。
この小説には、母親の呪縛に悩む二人の女性が登場する。
一人は、地元のスーパーに勤め、商店街にオープンした輸入ランジェリー・ショップ「シフォン・リボン・シフォン」(以下、下着店と表記)を訪れる32才の佐菜子。彼女は大きすぎる胸を好奇の目で見られ、親にも格好の標的にされてきた。臨海学校での水着写真を見た母に「みっともない」と言われたのを皮切りに、いまだに赤いブラジャーを買っただけで「こんな派手な下着!」「みっともない!」と言われてしまうのだ。佐菜子は親の望み通り慎み深く生きてきた結果「男性とつきあったこともなく、大きな胸を恥じていつも下を向き、地味な服しか着てこなかった」というのに。
もう一人は、下着店の店主である40代のかなえ。的確なプロの接客で佐菜子を迎えるが、彼女もまた幼いころから母親にエロティックな嗜好を繰り返し封印されてきた。かなえは念願の下着店を始めることで、母親の呪縛を克服したのだろうか? とんでもない! 乳がんを患った彼女に、母親が投げる言葉はすさまじい。仕事上の理不尽な仕打ちには耐えてきたかなえも、この言葉には嗚咽が止まらないのである。
地方のさびれた商店街の書店が閉店した後、突如オープンした下着店の話だ。保守的な人々は驚き、下着店はそれぞれの心に波紋を広げるが、この小説はおとぎ話ではない。店主のかなえは、東京で開いた店である程度の見通しをつけ、ネット販売も駆使しつつ、介護のために故郷に帰ってきた。そのプロセスには突飛なところがなく、淡々と下着の本質に迫ってゆく。
たとえば、米穀店を営む50代後半の均が、自治会の書類をかなえに渡すため、下着店に踏み込んだときの描写を引用してみよう。
美しく、洗練されているということは、女性のファッションに興味のない均でもよくわかった。去年、商店街の仲間と行った温泉街の、下世話なセクシーショップで売っていたランジェリーは、ここにあるのと比べて、ずっと安っぽく、淫らでどぎつかった。だから、どんなにレースやリボンで飾られていても、まだ親しみが持てた。だが、ここにある下着はそれとはまるで違う。派手なものもセクシーなものもあるが、それだけではない。もっと得体の知れない不気味なものに見えた。男をそそるためのものではない。もっと強烈に女の自意識のようなものを押しつけられた気分だった。
男にウケる下着と女にウケる下着は違うということだ。言い方を変えれば、わかりやすいコンサバな下着を選ぶ女と、自分らしいモードな下着を選ぶ女の2通りがいるってこと。だが、商店街にふいに現れた異物に、均が拒否反応を示す理由はもうひとつある。均の自慢の息子(29才)が、この店に出入りしているという噂を聞いてしまったからなのだ。
恵まれた少女時代の感覚のまま時が止まってしまった、60代のエキセントリックな旧家の奥様も登場する。「あなたは幸せね。こんなにきれいなものだけ見ていられるのだもの」と奥様に言われたかなえは思う。「もし、今の彼女が不幸だとしたら、それはきれいなものしか見ようとしなかったからだ」
きれいなもの、それは下着のごく一面にすぎない。現実がつらいからきれいなものだけを見たいという人は多いが、本当にきれいなものには陰影がある。光が輝くには影が必要なのだ。体には複雑な形と質感があり、それを包む下着には底知れぬ陰影がある。きれいなだけではない。
旧家の奥様は、かつて大切にされた経験があり、今も大切にされたいと思っている。きれいなものだけを見たいと切望している。しかし、そのことがなぜ不幸の原因になるのか。恵まれていたはずの彼女に抜け落ちていたものは何だったのか。
この答えは、母親からの呪縛に悩んできた佐菜子が、下着によって解き放たれる場面にはっきりと書かれている。下着ひとつで女は幸せになれると言い切っていいのである。たとえ、大切にしてくれる男性がいなくても、である。すべての女性が、このことを体で理解しておくことは重要だと思う。