文芸誌「新潮」連載中の執筆時点で未訳の作品という、著者の設定した条件で選ばれて紹介される30の小説。例外もあるが、作者は主にアメリカで活躍する作家が多い。とはいえ、実際に読んでみると「アメリカ」という枠の中でも、さまざまな出自の人々がいる。国や人種や言語で区別することが難しく、「世界」という言葉の曖昧さを実感させられる。たとえばイーユン・リーは、中国で育ち免疫学を学びに24歳でアメリカに渡ってから、大学で創作に転じた。中国人である登場人物たちの孤独と悲しみの切実さを巧みに描いた彼女の小説は、中国語だと〈自己検閲してしまう〉という理由から、英語で書かれている。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはナイジェリアで生まれ、幼いころはイギリスの児童文学を読んで育った。彼女は、英語で学校教育を受けたために、もう一つの第一言語であるイボ語を使って文章を書くことが出来ない。さらに、英語さえもアメリカ英語やイギリスのものとは違う、ナイジェリア独特の形になっている。19歳でアメリカに渡り大学で創作を学んだ彼女は、そんな特殊な環境で生きる人々の違和感を作品に取り入れ、ナイジェリア人の抱く欧米への劣等感とその歴史や、母国の人間に抱く愛憎を表現する。そんな多様な人々が集まり、作家となって評価される理由を説明した、アメリカの大学事情やアメリカ・イギリスの文学賞の今を教えてくれる著者のコラムも興味深い。
批評家たちによる狭い世界での評価を、自ら壊そうとする作家もいる。トマス・ピンチョンは、複雑で百科全書的な情報量を誇る作品の数々から、〈この上なく尊敬されているものの、実際に作品を読まれ。愛されることがあまりに少ない〉状況となっていた。それを知ってかはともかく、長い沈黙の後に発表された90年代以降の作品は、意外なほど物語がわかりやすくなっている。そして2009年発表の『LAヴァイス』(栩木 玲子・佐藤良明訳、新潮社)は、設定が探偵物で今まで以上にストーリーも追いやすい。さらには、バカみたいな展開やダジャレの数々、中二病的な男の友情を賛美する価値観といった、これまで見逃されがちだった要素もふんだんに取り入れられており、とっつきにくいイメージなどどこ吹く風といった痛快さをみせる。
自分たちの住む世界に疑問を投げかける作家もいる。ブライアン・エヴンソン『遁走状態』では、状況の理解できない物語世界が、突然読者の目の前に現れる。自分が加害者なのかどうかも記憶にない殺人事件に巻き込まれ、何者かに追われ続ける男。見知らぬ男が家を訪ねてくるが、父親の言いつけで部屋のドアを開けられずに戸惑う姉妹。〈当たり前だと思っていたことや信念を疑うようになりました〉という作者によって、この世界で起きている出来事には必ず意味や理由があるという、読者の固定観念は崩されていく。
本書の定義する「世界文学」は、単に日本から見た外国の文学という意味とは違う。多くの人たちが信じている、国家や言語、人種や宗教。それにまつわる価値観による権威や偏見と対峙しながら、それを揺さぶろうとする人々の「世界」が描かれた文学なのだ。著者は本書の1番目を飾る、6歳でアメリカに移民したドミニカ人作家ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(都甲幸治・久保尚美訳、新潮社)を紹介する中で、〈オタクは日本の文化で、アメリカ文学はオシャレ、そして中南米文学は土着の奇妙な世界だ〉というようなイメージは、やめた方がいいと読者に訴える。そして、ジュノ・ディアスのような、国や言語による文化の違いを飛び越える作家も多いという認識がないと現代文学は楽しめないと語りかけながら、〈読むことの歓びに満ちた世界〉への案内を始めていく。