続けて読むことを要求する本、順番に頁を追うよう読者に要求する本は、全体から見ればむしろ少数です。長編小説や伝記の読み方は、ほとんど劣勢といってかまわない状況に追い込まれています。さまざまな学問書、雑誌、写真集、パンフレット、薬剤の箱に封入されたリーフレットを、われわれは縦横に読みます。だからといって、大勢がより優れているという意見の根拠にはなりません。いちどでも長編小説を読み通したことのある方なら、きっとわたしに賛同してくれることと思います。
前後の項との直接な関連をもたないあるひとつの項をわれわれが読むとき、われわれは任意の項の最初から最後までを通して読みます。ひとつひとつの項の分量が極端に少なく、せいぜい一頁から二頁で終わってしまうような書物については、もはや連続性から起ちあがってくる、あのグッとくる感じは生まれません。あるひとつのトピックに興味を持ち、それについて知りたいと好奇心が起こる前に、トピックが別のものへと移行してしまうからです。われわれが辞典をはじめから通して読まないのは、その必要を感じないからではなく、ひとえに忍耐力の問題です。ですからこういった書物は、いくら有用であっても一種の退屈さがつきまといます。これは構造上、仕方のないことです。
わたしがいま書いたふたつの段落について、はじめのものは小説や伝記を擁護し、つぎのものは他の書物を擁護しています。『幻獣辞典』は、その名に辞典を冠することからもわかるとおり、後者に属しています。この本は縦横に読むことを読者に要求していますし、作者たちもまた、序文でつぎのように述べています。「あらゆる参考文献と同じく、〔…〕『想像の存在の書』は一気に読み通すようにできてはいない。むしろ読者は、万華鏡の移り変わる模様にたわむれるように、本書のあちらこちらを任意に開いていただきたい。」
言われたとおりにしてみましょう。この本を任意に開いてみます、すると表れたのは「サラマンドラ」の項です。書き出しは「これは火中に住む小さな竜であるだけでなく、(ある辞典によれば)「虫を食う両棲類で、真黒いなめらかな皮に黄色の斑点がある。」このふたつの特徴のうち、よく知られているほうは想像上の特徴である。」とあります。ほかの頁を開いてみましょう。「ノーム」の項が表れました。その姿についての箇所を引用すると、「彼らは地と丘の精である。民間の想像が描く姿は髭を生やした小人で、無骨でグロテスクな容貌をしている。僧服の頭巾のついた、からだにぴったりした褐色の服を着ている。」とあります。
このような調子で、百にわたる幻獣たちの姿、成り立ち、寓話、閑話、さまざまな人物による言及の引用が続きます。このために本書はとびきりの退屈さと、それに伴う「一種のけだるい喜び」を備えています。本書をはじめから最後まで通して読むことができる人間は、この先起こりうるどのような退屈にも耐えることができるでしょう……こういう言い方はどこか批判的ですが、『千夜一夜物語』が千一もの物語を秘めているからといって批判することができないように、本書についても批判はできません。むしろ、通して読めないようにすることにこそ、作者たちの意図があったように思います。この先何十年かかっても読み通せないだろうという気がするからこそ、ふと読みたくなって本を開く。するとそこにはいつまでも同じように珍しく、奇妙な獣たちがいる。本棚のなかに飼い慣らすことのできない幻獣たちを閉じ込めておく、幻想的なたのしさがあるのです。