きょう、山手線の車中で、プリンを食べている女性を見た。チョコレートや菓子類、アイスクリーム、パンなどを口にする人は時々いるし、おにぎりを頬張りながら乗ってくるようなヤツもザラだが、プリンとはねえ。小さな衝撃が走りました。
単にめずらしいとか、見たことないということではなく、それなりに「衝撃」の理由を分析してみると、三つほどポイントがあるような気がする。
まずは、プリンが道具を使う食べ物であるという点。彼女が食べていたのはコンビニでよく売っている、98円くらいの、しかしなかなかにボリュームのあるアレなのだが、当然、買った時に一緒に付けてもらうプラスチックの、ペナペナの透明なスプーンを使ってこれを食することになる。「なんかカバンの中、ゴソゴソやってるな、うるさい子だな」と思っていたら出てきたのがプリンで、「ここでプリン食べるの?」と思ったらすぐあとにビニールの包装をブチッと破ってスプーンが剥き出しになったのである。
先にアイスクリームと書いたけれどもアイスクリームの場合、たいていは棒状のアイス・バーであり、それでも二、三度、カップに入ったアイスを木のヘラですくっている連中を見たが、だいたいカップルか子供連れで、しかも夏という季節に限定される。そこには、「こんなところでアイスクリームを食べちゃってる私たち」という、甘えた、自堕落な姿態があってほんとうにゲンナリするのだが、その点プリンにはほぼ季節性が無く、つまりアイスクリームなら「夏だからね」という理由付けがあるのにそれが許されていないのがプリンで、だからこそプリンは電車の中に居場所が無いのであり、この、ぬっと突き出た無季俳句のようなプリンの存在感の異様さが二つ目。
三つ目は彼女が一人だったことだ。友達と一緒で、「もしかして、プリン、食べちゃったりする?」「する!」みたいなノリだったら、こちらも単に、いつものように「ひっぱたきたい、こいつら」という気持ちになってそれで終わりである。
キャリーバッグ、と呼ぶのだろうか、別に旅行に行くわけでもないのに、まとまった荷物をそれに入れて引っ張って歩く若い女性が最近多いが、彼女もそういうクチだった。ピンクと茶と白のストライプがなかなかオシャレ。
で、ふと考えてしまった。こういう場合、化粧をしている女性を見る時におじさんおばさんがよくやるように、眉をひそめたり、舌打ちしたりするのが大人の正しい抑圧の仕方なのだろうか。しかしどうしたわけか、そうした感情は湧いてこない。彼女の食べ方(すごく速い)にはどこかしら切実なところがあり、そこには「早く食べ終えてしまわなくちゃ」という感情(その表情や目の動きで彼女がそう思っているのは明らかだった)と、だったら出さなきゃいいのだが出して食べずにいられない欲求の強さがあり、そして「いったい何が悪いのか」という開き直りに近い傲岸さもいくらかはあるはずで、それらのブレンドされたある特有の空気が、その彼女を、一人の輪郭を持った個人として際立たせていた気がしたのである。
むろん「好感を持った」というのとはまったく違うのだけれども、なんというか……。そう、ハッキリ言おう。それはなんだか少し爽快な眺めだったのだ。コンビニで売っている、いちばん安くていちばんボリュームの多いプリンを山手線の中で掻きこむように食べること。きっとあのプリン、おいしかったと思うな、確実に。
さて。
【さらにヤキソバの日に限って、脱脂粉乳は「紅茶」に変わる。給食当番が巨大なアルミ薬缶から注いでくれるのだが、これもまた、紅茶らしき匂いも香りもない。しかし、なのだけれど、しっかりと色のついたこの茶色いお湯が不思議に旨い。(中略)
そして、ふつうでないヤキソバとふつうでない紅茶の組み合わせが、今まで経験したことのない爆発的な旨さを発揮するのは、ヤキソバをすすりこんで噛んでから紅茶を口に入れていっしょにモグモグやった瞬間だった。もう実に気分のいい味と香りが喉から鼻の奥へ吹き抜けるのだ。】
プリンがどうしたとかいう与太話が長すぎて、もう読むのをやめてしまった人もいるような気がしないでもないが、ちょっと待って。ここからようやく今回の本、『ラーメン屋の行列を横目にまぼろしの味を求めて歩く』の紹介に入る。著者は、上海料理をはじめ中国料理に精通し、高級店から街の一膳飯屋風情、さらに煙草から缶コーヒーまで、およそ口の中に入るものなら何でも俎上に乗せるという人である。引用したのは「給食のヤキソバが食べたい」と題された章の一節だが、ここでいう「ふつうでないヤキソバ」とは、「具はキャベツとモヤシしか入っていない。肉という繊維組織の毛一本ほどの痕跡も認められない」給食で出されたヤキソバのことを指している。この貧相なヤキソバが「食べたい!」と著者は書くのだが、そこにまた、「紅茶らしき匂いも香りもない」という、これまたダメな感じの飲みものが組み合わさって、それが「爆発的な旨さを発揮する」というのである。
マイナスとマイナスを掛け算するとプラスになります。給食を食べる前後の算数の時間には、きっとそんなことも教わっているに違いない年齢の子供=著者がここで登場するのだが、長く、反時代的なタイトルを持つこの本は、高級食材がさらなる高級食材へ発展することが良しとされるようなこの時代、そこらへんのOLが今はやりのTwitterなぞを使って、「新しくオープンしたあの店のランチはせいぜい☆2つ」などと批評したりもする、そういうミもフタもない、どこまでも単に数字が大きくなったり小さくなったりする足し算の時代にあって、マイナス×マイナス=大きなプラス、というマジックを見せてくれる本だといっていいだろう。
著者が引っ張り出してくるマイナスとはズバリ、「まぼろし」と「下手味(げてみ)」である。その味が社会から駆逐され、もう滅多に味わえなくなってしまったこと。下品で慣れ慣れしいが、しかし人を納得させる旨さを持っていたこと。