天皇が「国の大事を担って遙かな国に出かける苦労を思いさらに帰還の無事を願う」という意味の歌を作ると、遣唐使は落涙するのだ。こうして、情況としては「あとは、海を渡るばかり」になる。
このあたりの悠長さはぜひ読んで欲しい。盛大な催しを国家の中枢にいる人間たちが楽しんでいる感じが強い。
読んでいる者には、気分としては「早く行けよ!」である。今、本を読んでいて遣唐使に向かって、早く行けよ、という感覚が自分で十分おかしい。
そして派遣が決まってから2年後、836年5月、いよいよ出航。
四艘の船で難波の港を出たかと思うと、難破して摂津の港に避難。まだ外海にも出ていないうちに難破。
そしてなんとか体勢を整えて、その7月、博多から再び出航ということになったのだが、今度は第一船と第四船が漂流して肥前に着いてしまう。第二船は、肥前の島に着く。第三船は遭難して対馬に漂着。もうひどいもんです。それで、遣唐大使の藤原常嗣は一旦京都に戻ってしまう。このあたりからこの最後の遣唐使は「ツキに見放された」感じだ。
それでもめげず、翌年7月再び博多から出帆するがまた渡れずじまい。さらにその翌年(838)6月に出発するのだが、この時、遣唐副使の小野篁が渡るのを拒否してしまう。船に乗らない。
明確な理由はわかっていないが、簡単にいえば「こんなにまでして行かなきゃいけない理由はないんじゃないの?」ではないかという気がする。大使の藤原が、副使の小野が乗る予定だった船に乗ることにしたのが気に入らなかった、というのを理由にしている節があるが、賢い小野は、航海で死ぬなんてまっぴらだと思ったような気がしてならない。正副の大使の確執か、別に理由があるか、もういいやと思ったか。「こんなんで死にたくないね」と思っても無理はない気がする。
とはいっても、乗船を拒否したことで小野篁は、隠岐に流刑ということになってしまった。国家の命令を忌避したんだからね。後に許されて都に戻りはするが、「今風に考えると」行かないで命を失わなかったことが幸運だったという気がしてしまう。その、隠岐に流されるときの船が、簡単に渡れているのが妙におかしい。
そして、この時の船は、船自体も人員もバラバラになったもののなんとか大陸に流れ着く。どこに漂着したかよくわからず、上陸してから怪しまれて殺されたりもするので、まさに漂流譚だ。
そして、それぞれの上陸地点から長安までの旅がまた苦闘である。冒険・漂流譚を読むような、ようなではなくはっきり漂流譚で、旅の「苦闘と難問」、あるいは現地の警察権力に掴まったり、便宜を図ってもらうのはいいのだが金銀を奪われたり、騙されたり、病死したり。皇帝への贈り物を失い、移動手段を見つけることができず、また、長安の街に入る許可がもらえずなんのために大陸まで行ったのかわからないということにもなる。目的の寺に入れない僧にとっては、ただ苦難の旅以外の何ものでもない。
そんな辛い旅の本が面白いか? といわれると、これが面白い。真面目に歴史を読むというより、ひゃー頑張ったな、という感じで、こんなにまでしていったのかという印象が残る。
それと、著者がしっかり書いているけれど、この最後の遣唐使の頃になってやっと「日本人の学僧、知識人が増えてきた」という。前々から、「勉強はしていくんだろうが」向こうに行ってすぐに寺での修行だの政治的知識の勉強だのができるのは、よほど秀才か、と思っていたのだ。そうではなく、遣唐使は大陸から帰化した人が多く、それは名前から推察できるという。だから向こうに渡って学ぶことができるのだ。それが遣唐使の終わりの方になると、いよいよはっきり日本人で優秀な人材が多くなってきているとある。言葉も覚え、知識も蓄え、日本人が日本のために学びに行くというように変わっていったのだ。これで合点がいった。
こうした、最後の「遣唐使」一回分が読める。真面目な本であることは言うまでもないけれど、ハラハラドキドキしながら歴史を読む楽しい経験ができる。この遣唐使が、最後だったから、次はなかったのだが、第18回目の遣唐使として、大使に菅原道真が任命されたということが年表に載っている。
船に乗って難破していたら、天神様がいなかったのかもしれないと、思った私。