この『最後の遣唐使』では、文字通り実際に唐に渡った遣唐使の最後の派遣について詳しく調べている。わかる部分を詳しく、というしかないのだが。この時の航海についてはずっと日記をつけていて「死なずに帰ってきた僧」のお陰でかなり詳しいことがわかる。
悲惨さがよくわかるのだ。
遣唐使派遣の年表によれば、第1回目は630年派遣で、その時の人々は632年に帰ってきている。第2回目は653年だから、20年以上間が開いている。このときは120人が乗って出航するが、薩摩半島の南で難破・沈没、120人のうち5人しか助からなかったとある。それぐらいの危険があっても、行ったのだ。120人中5人だけ生き残る、というのは大惨事ですよ。これはこのまま信用すると、向こうに渡っていない遣唐使ということになる。
私が記憶しているのは、先に書いたように「遣唐使を派遣して当時進んでいた中国の政治や文化を学んで帰国し、日本の政策や文化に多大な成果をもたらした」ぐらいのもので、非常に危険な旅だったとか、日本を離れる前に難破して多くが死んだという話は覚えていない。授業でそんなことを教えてくれたか。私が忘れてしまったのだと思うが、大体「嵐が来そうな季節を避けていったのかどうか」を教えてもらった記憶もない。
日本を離れる前に遭難、難破するぐらいだから、行けといわれた方も、名誉ではあるが「危ないよなぁ、帰って来られればいいけど」と思っただろう。それまでの遣唐使がどうなったか知らないわけがないのだから。
最後の遣唐使は、834年の第17回である。
1回目からすでに200年を超えている、その間に17回派遣。第16回目が801年ということで、30年以上も間が開いている。納得のいかない間隔である。
外交関係がきちんとあって、文化的に日本が中国に学ぶというのであれば、もっと定期的に、例えば5年おきに派遣するなどすればよかったのではないか。5年おきぐらいであれば、前に行って仏教の修行を目的として出かけた者が十分学んで帰ってくるのに都合もいいのではないかと素人は思う。
など、あれこれ思い巡らしながら読むのが楽しい。
17回目の遣唐使派遣が決まったのは834年。ただし、遣唐大使(遣唐使の代表者)の任命がこの年あったというだけで、出航は836年までかかる。遣唐大使は藤原常嗣、副使は小野篁が任命された。
この藤原常嗣という名前で思い起こすことが何も無い私。しかし副使の小野篁に関しては古今集に歌が抜かれている人物ではなかったかという程度には知っている。他のことでも歴史の表面に出てくる名前だ。遣隋使になった小野妹子の子孫で、篁の孫に三蹟の一人小野道風がいるというから、文化的資質を持った血統というところか。そして、この二人が正副の大使に任命されてから、船を造り始めるのである。
これだって変でしょう。船の建造を始めていつ頃できる予定だから、その頃に出航しよう、その少し前に派遣団を結成すればいいというのが普通だと思う。
しかも、まだ船ができていなくて、派遣の人員が決まっただけなのに壮行会が何度も催されるのだ。天皇主催の国を挙げてのもっとも豪華で、派遣される者には名誉この上ない催しをはじめ、それぞれの一族の壮行会があり、逆に「お礼の会」も催す。けっこうどんちゃん騒ぎが続く。天皇から遣唐使たちに多くの贈り物があり、また、唐の皇帝・高官に贈る品も渡される。それに加えて、国家が主要な寺に命じて航海の無事を祈らせ、さらに派遣される皆を昇進させる。それはご褒美ではあるのだが、何かあった場合残された家族の収入の保障をするという目的もあったようだ。このあたりは確かに国家事業で大金がかかっているのがよくわかる。