【けれども、ここが肝心だと私は思うのだが、乗りものの味わいは、それが輸送上の切実な必要性によって支えられているかどうかによって、ずいぶん違ってくる。観光バスやロープウェイは客を誘致するために好んで高いところへのぼりたがるが、おおかたの鉄道はそうではない。小海線が八ヶ岳の高原を走るのは、甲斐と信濃を結ぶという使命によるのであって、それ以外のものではない。少なくとも建設の動機はそこにあった。】
【山口線に「SL列車」が走り出したとき、さっそく乗りにいった。なつかしかった。けれども、つまらなかった。飼い慣らされた檻のなかのクマを見るような感じ、とでもいったらよいだろうか。(中略)生活者としての乗客とともに「実用列車」でゴトゴト揺られているほうが性に合っているし、そのほうがたのしいのである。】
あたかも、坂口安吾の「日本文化私観」のよう、と言ったら言い過ぎでしょうか。安吾は、あの有名な論稿の中で、「生活の必要」ということを言ったのでした。必要である、ということから生まれるものだけが美しい。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向にかまわぬ、「必要」とあらば駐車場にでもするがいいと。
しかし、もちろん宮脇俊三は安吾とは違います。なぜなら、鉄道は「実用」であっても、その鉄道に、例えば国鉄全線を完乗する、などという行為は「無用」もいいところだからです。列車に乗ることを趣味の域にまで高めること。宮脇俊三は、しかしそのことを誇らしげに語ることはなく、といって露悪的に自嘲することもなく、「用」と「無用」のあいだをいつも揺れ動きながら、かの百けん先生とも違う、独自の紀行文学を作り上げたのでした。
内田百けんの「阿呆列車」が、その本自体が濃密な宇宙で、そこで見事に完結する味わいのものだとしたら、宮脇俊三の文学は、もっと誘惑と情報に満ちた流線形なのだと思います。
お金がなくても、遠くまで行かなくても、旅はできる。ゆっくり行けば、狭い日本も広くなる。幸い、文庫でいっぱい出ていますから、ポケットに宮脇俊三をつめて、さ、春の旅へと出掛けましょう。