桜の季節です。寒さと暖かさが一進一退の攻防を繰り返し、それでも少しずつ暖かさが勝っていって、相撲でいうならついに寒さが土俵を割り、いっせいにわぁっと歓声を挙げるような感じ。縮こまっていた四肢にもどうやら血が廻り出して、そうなると現金なもので、ふと旅に出たくなるのが人情です。
飛行機に船、バス、はたまた自家用車にバイク、自転車と、旅の移動手段は数あれど、旅情という点で一歩も二歩もリードするのはやはり鉄道でしょう。さっきまで自分がいた場所(駅のホーム)が次第に遠ざかっていき、少なからず非日常の世界に連れて行ってくれる鉄道という手段こそ、旅の千両役者ではないでしょうか。
ところで、「鉄道ブーム」といわれて久しいですが、あれは、少しく沈静化したのでしょうか? 下火になった様子はないですから、落ち着いて来た、といったところなのかもしれません。
鉄道といえば長らくオタクもしくはおっさんの独壇場であったわけですが、近年では女性の鉄道ファンが急増しているらしい。そればかりか、「とにかく乗ることが好き!」という「乗りテツ」、ひたすら絶好のビューポイントを探して撮影しまくる「撮りテツ」、さらに「収集テツ」「模型テツ」など、「テツ」たちは細分化されているらしいのです。
これは一種の成熟であると同時に、シビアに言うと袋小路でもあるのだと思います。誰が誰よりどれだけ詳しいとか、どこまで知っているとか、そういうことが先鋭化されていったら、もう、ごく一部の人にしか言葉は届きません。そうじゃなくて、列車に乗って旅したいし、鉄道にだって興味はあるんだけど、そういうマニアックなのじゃなくて、もっとゆるやかに、語りかけてくれるように教えてくれる人はいないものかなあ。そう思いませんか?
で、いるんですね、ちゃんと。日本には、実に幸いなことに、宮脇俊三という、「手ごろな」書き手がいるのです。
【東京にいておもしろいと思うのは、各方面からやってくる列車が見られることである。線路がつながっている本州と九州とを合わせると、東京都を除いて四〇府県ある。このうち東京への直通列車がないのは奈良県だけで、他の三九府県からは乗り換えなしで東京にこられる。ちなみに、大阪に直通するのは三一府県で、名古屋は二八府県である。
列車は地方の香りを、なにがしかは運んできてくれる。近時とみに香りが失せ、とくに東海道方面においていちじるしいが、上野駅にいけば雪を積んだ列車が入ってくる。ジェット機にはできないことだろうと思う。】
いかがでしょう。なんというか、とても「普通」の文章じゃないですか? スーッと読み下すことができると同時に、鉄道に詳しい人ならではの知識が、うんちくではなく、さりげなくちゃんと書き込まれている。しかも最後の「ジェット機にはできないことだろうと思う」の箇所などは、思いがけずハッとするような熱を帯びています。
宮脇俊三という人は、読者に対して、どのような仕方で情報や知識を提供するのが最良なのか、常に意識している書き手でした。その文体も、「文体」という言葉から想起させるような作家的自意識から非常に遠いところを歩きながら、まぎれもなく宮脇俊三でしかない文になっていて、このあたり、文庫の解説で酒井順子さんは「何と抑制が利いていることか」と表現しています。