山城新伍という人の、立ち位置の絶妙さ。つまり、頭の良さ。あるいはズルさ(ズルさは著者本人の見立てでもあります)。強烈な素材をして、自ら語らしめる。それだって、なかなかできることではありません。信頼を得た人間でなければ得られない・書きえない事柄を得るというのは、それだけで大きな意味を持ちます。しかし、そこまででは実は本にはならない。そこまででは実は本にはならないはずなのに、そういう本のほうがたくさん流通しています。あの人だから聞けた証言が満載……、あの人しか書けないエピソードがいっぱいの本……。
『おこりんぼ』はそういう本とは違います。著者の山城新伍は、実人生においてそうだったように、若山富三郎と勝新太郎の、時にクッキリと対照的な、時にあまりに似通った風貌と所作にピッタリと寄り添いながら、同時に的確な距離を置いて、2人に視線を送っています。あまりに近づいては焦点距離が合わなくなるのを熟知しているかのようです。後年、「この2人のことを本に書いてやろう」という心積もりがあったわけではなさそうですから、これは東映ニューフェース第4期生として1957年に役者の道に入った山城新伍という人の、生来の優しさであり、同時にこの世界で生き延びてゆくためのサバイバル術でもあったのだと思います。すぐカッとなって暴れる若山富三郎から、「ぼくだけはずっと殴られたことがなかった」というのも、なるほどうなづけます。
若山富三郎と勝新太郎、2人の数々のエピソードは、面白すぎてもったいないので、ここでは一切、書きません。代わりに、2人がそれぞれどんな人間だったのか、それを山城新伍がどう見ていたのか、本の前半部と後半部にそれぞれ離れてはいますが、図らずも2人の「さびしんぼ」ぶりが対照的に描かれた箇所を紹介してみます。
【「帰るのかよ、淋しいな」
そう言う目は、本当に淋しそうだった。
ぼくはまた腰を下ろすしかなかった。
それから小一時間、また芸の話になる。
話を聞きながらも思っていた。
長くなるなあ、切れない縁になるなあ……。
東山の家を後にする時も、そう思ったことをぼくははっきりと覚えている。
「おい、また明日も来てくれよな」
別れ際、若山さんはぼくにそう約束させた。
この人との約束は破れないな、と思った。
破れば殴られるだけでは済まないかもしれない。
守れば、きょうだいになれるかもしれない。
ぼくは、きょうだいになる方を選んだ。
そしてその日から、「おにいちゃん」は「おやっさん」になった。】
だいぶスペースを取ってしまいましたが、ここ、実際に上記のように行を分けて書いてあるのです。行分け、というのは詩の最大の特徴でもあるわけですが……。ちなみに「おにいちゃん」というのは、山城新伍が若山富三郎を今までそう呼んできたのではなくて、実の弟である勝新太郎が若山富三郎をそう呼んでいることから来ています。
次は勝新です。
【勝さんはもっと複雑な表現をした。
午前一時、銀座でのことだった。
「新伍、あと一五分か二〇分だけいろよ。いい女が来るんだよ、もうすぐ」
「いや、明日、撮影で朝早いんですよ」
「今帰ったら後悔するぞ。すごくいい女なんだぞ」
「いいえ、今度ゆっくりできる時に紹介してくださいよ」
そう言って、ぼくは帰ってしまった。そして次にその店に行った時、ママに聞いた。
「ママ、こないだ、オレが帰った後に、いい女って来たの?」
「え? この間? 誰も見えませんでしたよ」】