【僕はその日、陽のあるうちに揚子江を渡って除懸(原文の除は水編つき)に帰らなければならないので、ゆっくりと語り合う時間はとてもなかった。話はとびとびだった。戦争の話。お互いに無事でよかった話。東京の話。(中略)寄書(監督協会宛等)をした。《悪運の強い奴二人、山中貞雄》書いては笑って僕の手元に廻してきた。《南京攻撃の時は煙草がのうて困った、追撃が急やで補給はつかんし、そこらの土手の枯れた草ちぎって吸うた。中で蓬(よもぎ)が一番うまかった》。僕は感動した。山中は僕より遥に苦労をしている。僕は改めて山中の髯の伸びた顔を見た。僅かに三十分あまりの短い間だった。歩き出した。山中は営門まで送ってくれた。今度会うときは東京だ。もう一度手を握ってそこで別れた。】
こうして書き写していても、徐々に涙腺がいけなくなります。ここからおよそ8ヵ月後、黄河の決壊にともなう大洪水の中を、褌一丁で這い回るような壮絶な戦闘の末、腸を病んだ山中貞雄は、昭和13年9月17日、帰らぬ人となりました。28歳と10ヶ月の生涯。小津は無事に東京へ帰りましたが、そこで山中貞雄と再会することは、ついに無かったのです。
『映画監督 山中貞雄』は、「おばあちゃん」(山中貞雄の母)以外は、登場人物の大半が男、男、男の汗臭い世界です。そこにほぼ唯一の例外として現れるのが女優の深水藤子。女性に関しては徹底的に潔癖で晩生、むろん独身であった山中貞雄が大いに目をかけていた女優が深水藤子で、これがなにかと周囲の冷やかしのタネになるのですが、当の深水藤子自身も
【わたしのシーンが終わると、ですね……。すいぶん皆さんにサカナにされたことは確かです。ただ、わたしは先生を尊敬してましたから、もらって頂ければ、ゆくつもりはしてたんです】
というつつましさです。が、しかし……。山中貞雄の死後、その遺影と対面した時のことを、後に姪の道子が語ったというそのくだり。
【それでね、戦死、聞いたときに、(深水さん)家へ来はって、で、お仏壇にお詣(まい)りしはって、ちゃんと坐ったまま、しばらく動かはらへなんだもんね。ポロポロポロポロ、涙こぼして。うちら……どうしよう、言うて……。なぐさめようもないし。だいぶ長いこと坐ってはった……】
冒頭に書いた恥ずかしい「落涙」とはここのことです。あー、これはイカン。またショボショボします。
わずか5年間の活動期間に、共同監督2本含めて監督作品は実に26本。しかし現存するのはたった3本。日本映画界に束の間、現れて、長い余韻とともに消えていった山中貞雄は、まさに彗星でした。そして、遠くから見れば儚い美しさだけで済むその彗星に、血縁者ゆえの近さで肉薄した加藤泰の『映画監督 山中貞雄』は、本の中に山中貞雄その人を歩かせてみるという試みのように思えます。そして、単に近親者であっただけではなく、自ら傑出した映画人だった加藤泰だからこそ、文章というものがカツドウになり得る、稀有の瞬間を見せてくれたのです。
現存する3作品、『丹下左膳餘話 百萬両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』は、いずれもDVDで観ることができます。また今年は、おそらくどこかの劇場でプログラムが組まれるのも間違いないでしょう。『映画監督 山中貞雄』ともども、山中貞雄作品の、人の日常を見つめる目の、そのポジションの的確さ、流れるような絵づくりのしたたかさ、スクリーンから放出される抒情の波を、ぜひ体験してください。