21歳、助監督時代の山中貞雄が、下宿から実家に「栄養の補給に現れた」時の描写です。著者の加藤泰は、母親の弟にあたるこの叔父さんの影響で映画の道を進むわけですが、山中貞雄が生きた時間の短さ、加藤泰自身の若さを考えると、さほど多くの会話を交わしたはずがありません。2人の年齢差は7歳で、叔父と甥の関係にしては近いともいえますが、この道行きに同行したわけもなく、本人への取材とも考えにくい……。驚くべきは、「歩きながらマッチをすってつけて」とか、「自分が動くみたいな錯覚の瞬間があってまた元に戻る」とか、あたかも自身の身に起こったことのように書いている点です。これはいったい何か。
創作、でしょうか。そんな手つきも感じないではありません。綿密な証言や取材の賜物? 確かに加藤は、キネマ旬報社から山中貞雄についての執筆を依頼されてから、資料の収集と関係者インタビューだけで3年の歳月を費やしています。しかし、創作にしては地理の細部が忠実に過ぎ、取材による再現であったなら、そもそも山中貞雄の単独行の場面なのですから、誰も「目撃」などしていないはずなのです。
おそらく加藤泰は、『映画監督 山中貞雄』を書いているその時、山中貞雄その人に「成っていた」のではないでしょうか。3年間の取材、これはやはり必須です。ここで得た事実や証言や思い出話が、まず、土壌を作る。その地盤の上を歩きながら、加藤自身が山中貞雄と交わした、わずかな会話の記憶をめいっぱい手繰り寄せる。自分自身が京都の街を歩き回った身体の記憶をさらに上書きする。
『映画監督 山中貞雄』において特徴的なのは、加藤泰の、地理的な感受性の鋭敏さです。本書には多くの写真や、山中貞雄の直筆の絵、書き文字などが収録されていますが、地図の数も少なくありません。当時の京都の映画館の位置だとか、撮影所全体を俯瞰してどこに何があっただとか、山中貞雄が所属していた福知山の連隊にいたっては、駅や川や射撃場、演習場との位置関係、碁盤の目の福知山市街と第20連隊との距離などの書き込みまであります。本書に掲載された地図は、いずれもそれが無ければ話が先に進まないような性質のものではありません。つまり、それは読者のためではなく、著者自身のために必要な道具だったのです。
地理の人、加藤泰が書いた『映画監督 山中貞雄』という成果を、ふと「カツドウ」と読んでみたい誘惑にかられます。活動写真の活動、カツドウです。取材と、記憶と、自分の身体と、いくぶんかの推量(創作?)が混ぜ合わされて、いわば書きながらにして「山中貞雄として歩いてみる」加藤泰には、書くことはすなわちカツドウでした。闇雲に、自分だけの山中貞雄像に向かって「走る」ことを聡明に回避する加藤泰は、「走る」のではなく「歩く」ための手段として地理を必要としたのだと思います。道なき道を、想念の赴くままに「走る」ことを禁じ、地理に従って「歩く」ことこそがカツドウである。そのように読める『映画監督 山中貞雄』は、紛れもなく映画監督の手による本なのです。
この本には、山中貞雄をめぐる様々な映画人たちが、まさに星座のように移ろって行きます。同じく日中戦争に応召した6歳年上の小津安二郎とは、互いに深く尊敬しあう間柄でしたが、戦地(中国の句容という所)に山中貞雄を訪ねた小津安二郎の一文はこうです。最後の面会のシーンです。