十数年ぶりに読み返して、もうあと20行ばかりで読み終わるというあるくだりで、ついに落涙……。真実の傑作『映画監督 山中貞雄』についてこれから書いてみたいと思います。
新装版『映画監督 山中貞雄』は、2008年10月、キネマ旬報社から「復刊」されました。最初の版が出たのが1985年ですから、23年ぶりの復活ということになります。かねてより名著の評判の高かった本書は、絶版となってしまったこと、現存するフィルムが3本しかない幻の映画監督の伝記であること、書いたのがその幻の監督の甥で、自身もこんにち高く評価されている映画監督の加藤泰であること、などが重なり、定価2千円の本ながら古書店では4千円~8千円の高値の付くレア本となっていました。
「没後70年、生誕100年」というのが、復刊のとりあえずの理由です。1909年11月8日に生まれ、1938年9月17日に亡くなった山中貞雄は、2008年が没後70年、そして今年が生誕100周年にあたるというわけです。
『映画監督 山中貞雄』が出た1985年という年は、「プラザ合意」の年として記憶している方も多いかもしれません。これから日本がバブル経済の階段を駆け上っていく初期段階のこの年は、日本映画界においては、季刊映画雑誌『リュミエール』が創刊された年でもありました。筑摩書房という、けっして小さくはないがさりとて大出版社でもない、もちろん映画専門の版元でもない、そういう所からコンスタントに映画雑誌が出るということ。『リュミエール』は、既存の映画誌と違ってカラーのスチルやグラビアは一切なく、中身はすべてモノクロで批評が中心。そして表紙だけはあでやかなカラー写真を配して、紙質は本文紙も含めてかなり豪華なものでした。
山中貞雄の本のことを書くのになぜ1985年を持ってくるかというと、やはりあの時代、映画をめぐるある種の状況の中で、山中貞雄は「発見」されたからです。1980年代の後半、世界中のあらゆる国の映画をもっとも多く観ることができる環境にあったのは、パリではなく、東京でした。1985年を経由しなくても、山中貞雄の天才を信じて疑わない人々はいくらもいたでしょうし、東京の映画上映をめぐる環境が、明らかにカネの力によるものであったことも確かです。そのことの是非はここでは問いません。しかし、映画など関心のなかった人が何かの間違いのように映画に染まってしまう、山中貞雄という名前をつい先月まで知らなかった人が、残された3本のフィルムの上映が行われている場所であれば、どんなマイナーな小ホールだろうが区民センターだろうが、繰り返し足を運んでしまう、そういう底辺の広がりは、やはり1985年の中から生まれたのです。
さて。例によって前置きが長くなりました。『映画監督 山中貞雄』を読んでみます。
【それでやっと人心地がついた山中貞雄はどうしたか。歩いて、多分、三条通り辺まで出たのではないかと思う。どのコースを行ったのか? 長兄の家を出て、正面通りに出て、横切って、そのまま真っ直ぐ行ったと思う。行くとすぐ七条新地(通称橋下)の遊郭のど真ん中である。高瀬川の流れがゆるやかにカーブしながら廓を横断して来ている。娼家はその両側の一帯に軒を連ねている。山中貞雄はそのほの暗い暖簾の陰から「ちょっと、これ、旦さん……」の、不意の潜めた女の声を聞き流しながら五条大橋の西詰に抜けて出る。(中略)山中貞雄は懐からバットの箱を出して、一本くわえ、歩きながらマッチをすってつけて、フーッと川風に向かって煙を吹く。(中略)その流れだけをジーッと見ると自分が動くみたいな錯覚の瞬間があってまた元に戻る。もういっぺんマキノ正博のところに行って頼んでみる、それが筋であろう。だが、その前に――書きたかったのである。「何や知らん……」、この三条小橋、と言うよりは「木屋町三条」のドラマをである。】