『まなざしの地獄』にはいくつかのデータが出てきますが、中に「東京で就職して不満足な点」という1963年のアンケート調査があります。そこで見田宗介は「友人がいなくて淋しい」や「仕事や仕事場が不満」の2倍くらいの値で、「自由時間が少ない」「落ち着ける室がない」が高い数字を出していることに注目します。そこから、次のような推測=分析を引き出します。
【彼らはある種の強いられた関係から脱(のが)れようとしながら、ある種の関係を欲求している。】
ここから、「まなざしの地獄」へと思考を導いていきます。「自由時間」(時間)も「落ち着ける室」(空間)も、それは彼らを「地獄」へと叩き込むまなざしの遮断を意味していると見田宗介はいいます。しかしそれは逃避ばかりでなく、理解しあえる関係や、より主体的な関係を新たに構築したいという望みでもある。そうです。普通なら「のがれる」は「逃れる」であるところに「脱」の字を充てているのを見落とさないでください。見田宗介のテキストでは無駄なもの、冗長なものがほとんどなく、代わりにこうしたルビや傍点がしばしば動員されます。そしてこれらの記号が、テキストの中でほんとうに生かされています。
見田宗介は、稀有の思考と感受性を持つ社会学者として、一見して平凡なアンケートの数値から、その数値を構成するひとりひとりの、いわば「実存」(この言葉も最近、あまり見かけません)へと分け入っていくわけです。本書の中では、「統計的事実の実存的意味」という言葉で解説されているくだりです。
この時代に『まなざしの地獄』が復刊されることの意味は、もちろん一つではないでしょう。もはや「就職氷河期」という言葉を使うのもバカバカしい、総崩れの雇用の現状の中で、たとえば10代、20代の人たちにこの本がどう読まれるのか、興味があります。また、この本が復刊として世に出た一つの効用として、巻末に付けられた、著者の「弟子」ともいえる大澤真幸氏の解説が読めるという点があります。特に、N・Nにとって「まなざしが地獄」であったのに対して、1997年、神戸の児童殺傷事件のA(酒鬼薔薇聖斗)が言う「透明な存在」においては、逆にそこに「まなざしが無いことが地獄」だったという、その対照性について論じた箇所は白眉です。
『まなざしの地獄』が刊行された現在、この2009年のまなざしは、果たしてどうなっているでしょうか。例えば、21世紀に入ってから飛躍的に増大した「監視カメラ」という、あの金属の「まなざし」。そこではもしかしたら、「監視カメラ」を向けた側にこそ、安全や安心を獲得するための焦燥=ぬるい地獄があるのかもしれません。