出版の世界で、時々、「復刊」という出来事が起こります。復刊が起こると、本好き、読書好きの人たちのあいだでは、ささやかな波風が立つことになります。復刊は不思議です。なぜこの時期にこの本がまた世に出るのか。そこに込められている版元の、いやもしかしたらたった一人の編集者の意志とはなにか。復刊される本は、かつて確実にその本が、ある一定数以上の支持を受けたこと、それだけの力を持っていたことを示すと同時に、ある期間、忘れられていたことをも意味します。そして復刊された本は、その本がリアルタイムで流通していた時代を知らない人々にとってはもちろん、ある種のなつかしさとともに再び手に取る人にとっても、2009年なら2009年を生きる人にとって、まぎれもなく「新刊」として立ち現れることも間違いないのです。
「復刊」には、いま、という時代を映す微妙な要素がありそうです。そのあたりを意識しながら、この新しい連載を始めてみたいと思います。なお、何をもって復刊とするか、厳密な定義は困難ですが、単に、しばらく書棚で見なかった単行本が文庫化された、というようなケースはもちろん含まれません。そういう版元の自動的な選択ではなく、「消えていた」本を復活するにあたって、なにかしらの「意志」を感じるものを、できるだけ取り上げていきたいと思います。
さて。最初に取り上げるのは、『まなざしの地獄』です。全部でおよそ120ページの小ぶりな体裁ですが、ただならぬ密度を湛えた、非常に濃い本です。著者の見田宗介(みた・むねすけ)は1937年生まれの社会学者。サブタイトルに「尽きなく生きることの社会学」とあります。
90年代以降、社会学という分野は、比較的広範な読者を獲得するようになったジャンルだという印象があります。90年代には、例の「援助交際」や「終わりなき日常」をキーワードに宮台真司氏の活躍があり、以降も上野千鶴子、大澤真幸、近年では本田由紀、パオロ・マッツァリーノなんて人たちが旺盛に仕事をしています。社会学において特徴的なのは、いうまでもなくフィールドワークや調査に基づいたデータを重視する点です。しかしもちろん、ただデータを白書のように並べただけ(そういう本の価値や面白さはむろんありますが)では、著者の名前が人々の記憶に刻まれることはありません。そこにはデータへの「読み」の独自性や批評性があり、そこからさらに展開される論考があるからこそ、同じ著者の次回作も買い求めるということ、つまり読者が付くということが起こるわけです。
見田宗介は1937年生まれですから、先にあげた数人の社会学者たちの先達として、日本の社会学者の第一世代ともいうべき存在です。実際、『まなざしの地獄』には大澤真幸(まさゆき、ではなく、まさち、と読みます)の周到な解説が付いていますが、大澤真幸は大学で見田宗介の講義を聞き、その影響で自らも社会学の道に進むことを決めたという人です。私は今回初めて見田宗介の本を読みましたが、まず書き出しの硬質な文体に「ひょっとして歯が立たないかも」と思いつつ魅了され、しかしその後の記述がけっして難解でないことに安堵し、無駄をそぎ落とした進行に襟を正す気持ちになり、そしてどこかしら自分の中の「情」が突き動かされるような思いがしました。
書き出しの部分はこうです。
【都市とはたとえば、二つとか五つとかの階級や地域の構成する沈黙の建造物ではない。都市とは、ひとりひとりの「尽きなく存在し」ようとする人間たちの、無数のひしめき合う個別性、行為や関係の還元不可能な絶対性の、密集したある連関の総体性である。】
いまこうして書き写してみても、なんだかドキドキします。硬い。硬いです。しかしそれは堅苦しいのではなく、向こう側が透けて見えるような、いわば鉱物の硬さのように感じます。個別性、絶対性、総体性と掛け算が畳み掛けてくると同時に、「ひとりひとり」のひらがな部分、「尽きなく存在し」の、この「尽きなく」、本の副題にまでなっている重要なキーワードですが、およそ学問的な堅さとは異質の、微妙に情感を含んだ形容です。そして「二つとか三つとか」ではなく「四つや五つの」でもなく「二つとか五つとかの」というこのデコボコ感も、なんだか気になる。別になりませんか(笑)?