裁判所は「心の中に踏み込むものではない」と言うだろう。しかし、外に現せない心を抱き続けるほど苦痛なことはない。そうなると、教師には取るべき道は二つしかない。教師をやめるか、自分の心をだまし、仮面をかぶって君が代を歌って何とも思わない二重思考に慣れるかだ(慣れないと心が壊れる)。二重思考は自分の心をだまし、さらにだましたことを意識から消し去る。結局、心そのものが改変されるということだ。
二重思考は麻薬である。二重思考ができなければ、警察署長が飲酒運転をしたり、消防隊員が放火したり、校長先生が女子高生のスカートの中を盗撮したり(今どき珍しくもないが)、そんな分裂したような行動はできないはずだ。麻薬は心を作り変える。彼らはもう警察署長でも消防隊員でも校長先生でもない。ただ「犯罪者」の心を持っているに過ぎない。では教師はどうだ? 本心とは別のことを言い、行動して平然とできる人物を、わが子が「先生」と呼び慕うのを黙って見ていられるか。しかし、彼(彼女)をそんな人間のかすにしてしまうのは「公共の利益」、つまりわれわれなのだ。
『一九八四年』は今なお、近未来小説であり続ける。もともとオーウェルの“NINETEEN EIGHTY-FOUR”は早川書房から1968年に『1984年』として出されたが、今回ご紹介している『一九八四年』は「新訳版」として、2009年7月に発行された。つまり、『一九八四年』は今こそ読まれるべきなのだ。
そして『一九八四年』を2009年の今、読むべき理由がもう一つある。言わずもがなの感はあるが、村上春樹の『1Q84』が同年5月に出されたからだ。報道によると、早川書房が『1984年』の新訳版をこの時期に出したのは「偶然」だったという。それが本当なら、天啓というべきだろう。出版社にとってというより、私を含め今を生きる人たちにとって、である。
村上春樹の『1Q84』は、オーウェルの『1984年』をもじったと言われる。私は無論ここで、2冊(つーか正確には3冊か)を比較検討するつもりはないが、『1Q84』が主人公2人の物語が並行して進んでいくのに対し、『一九八四年』は一貫してウィンストンの視点に固定される。『1Q84』のようにパラレル・ワールドが描かれるわけでもない。いずれ思考犯罪で逮捕され、拷問され、結局は死刑になると覚悟していながら、ウィンストンはあえて心の自由を求める。彼は仏の手のひらに載せられた孫悟空のように、知らぬ間に党によって袋小路に追い詰められていく。ねじれも何もない。ひたすらソリッドな現実である。
思考実験だが、2次元の平面に生きている人は3次元の空間を想像することができない。もし、3次元に生きている人が2次元に生きている人をつまみ上げて、平面の別の場所に下ろしたら、2次元に生きている人は奇跡が身に起きたと思い、新興宗教の教組になるかもしれない。ウィンストンは『一九八四年』という平面に張り付かされている。その抜けがたさがどうにも歯がゆく、読者はそれこそ並行世界でもあればいいのにと思うだろう。
同じことが次元を構成するもう一つの軸である時間にも言える。例えば1945年の夏、南方へ飛び立つ特攻隊員のドラマをテレビで見て、「もうちょっと待ってたらねえ」とつぶやく人がいる(おばさんが多い)。それを聞いておじさんは「あほか。そんときは8月15日で戦争終わるなんて、誰も分からへんのやから」と言う。現在は過去に対して圧倒的に優越する。
しかし、実はおじさんもそう思っている。ただ、おじさんは見通せない未来を信じることの難しさに打ち負かされているのだ。10円玉を放り投げて、たとえ100回連続で表(10のほうじゃないですよ、平等院鳳凰堂のほうです)が出ても、101回目はやはり表が出るか裏が出るかは半々の確率になる。現在は未来に対してあまりにも無力である。その無力感が人を腐らせ、殺すのだ。
『一九八四年』は、いわば日本の1945年7月が未来永劫続く世界である。ウィンストンは、同じく党を毛嫌いしている真理省の同僚女性と恋仲になる(これ自体、犯罪的)。逢瀬を重ねる隠れ家で2人が語り合うこんなシーンがある。
〈「ぼくたちが今やっているゲームでは、こちら側に勝ち目はない。ただ敗北でもましな敗北がある、それだけだよ」。彼(=ウィンストン)は彼女が肩をよじって反対の意を表したのが分かった。彼がこの種のことを言うと、彼女は決まって反論した。自然の理法として個人はつねに負けるものである、などとは絶対に認めようとはしないのだ。(中略)彼女は理解しなかった――幸福などというものは存在しないこと、唯一の勝利は自分たちが死んでからずっと先のはるか未来にしかないこと、党に宣戦布告した瞬間から自分は死人だと考えるべきだということを〉
個人など、党という巨大な「壁」にぶつかって割れる「卵」でしかないということだろう。これもまた言わずもがなだが、私は村上春樹氏が2009年2月、「エルサレム賞」の授賞式で行った講演を引き合いに出そうとしている。「高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう」という宣言は、すっかり有名になった。
村上氏は「伝えたいことはたった一つ」として、このように述べた。〈私たちは皆、国籍や人種や宗教を超えて人間であり、体制という名の頑丈な壁と向き合う壊れやすい卵だということです。どう見ても、私たちに勝ち目はなさそうです。壁はあまりにも高く、強く、冷酷です。もし勝つ希望がわずかでもあるとすれば、私たち自身の魂も他の人の魂も、それぞれに独自性があり、かけがえのないものなのだと信じること、魂が触れ合うことで得られる温かさを心から信じることから見つけねばなりません〉(講演は英語で行われた。訳文は2009年3月2、3日『毎日新聞』から)