過去の捏造に手を染めながら、例えば戦争に関する新聞記事を過去4年分ひっくり返し、敵国としての「ユーラシア」の文字をすべて「イースタシア」に置き換えておきながら、自らが「オセアニアはずっとイースタシアと戦争をしてきた」と信じ込むことが、党員には求められる。知っているのに知らないという分裂した思考方法は「二重思考」と呼ばれる。この二重思考こそ、思想・情報統制、相互監視社会の「最終進化型」として描かれた『一九八四年』を貫く大事なキーワードである。
不幸なのは、主人公のウィンストンが、どうしても二重思考になじめなかったことだ。過去が常に作り変えられると、個人の記憶にはよりどころがなくなる。ウィンストンが1週間前までオセアニアは確かにユーラシアと戦争をしていたと「知っていた」としても、それを裏付ける客観的な証拠は、もうどこにも残っていないのだ。党が「2+2=5」と決め、すべての情報を操作してしまったら、「2+2=4」であることを「いかにして知る」というのだ――とウィンストンは自問する。
私は考えざるを得ない。もし私が、私自身の記憶を証明するよすがを失い、その真偽を疑い始めたら? 私が今、娘を諭す言葉は、私を諭してくれた父母の言葉である。夜中に私を眠れないほど苦しめるのは、私が裏切った友の涙である。私が勇気を奮う自信を失ったとき、私を鼓舞してくれるのは20年前に見た映画の1シーンである。
それらの過去がすべてがうそであったなら、私は自分が何者であるか、分からなくなる。もちろん真実だという確信はある。しかし現実に「党」が介在せずとも、記憶は再構成されるものなのだ。そして、共有されない記憶は意味を持たない。結局、私を構成するすべてのものが証明不能になる。自分自身を証明しようとすればするほど、その実体がなくなっていく。
しかし、それは詭弁である。数学の公理が、ただ与えられるから公理であるのと同じように、一番大事なものは証明できない。証明する必要もない。ただそこにある。記憶とは、すなわち心である。昔の写真を眺めて過去を確かめることは、波に揺れる小舟を岸につなぎとめておく綱のようなものだ。ただし、綱が切れたからといって舟が沈むわけではない。過去と断絶されても、私の心はここにある。
だが、もやい綱を切られひとり波間にたゆたう小舟の立場は、心もとないものだ。証明ができない以上、党が言う「2+2=5」が正しく、自分のほうが間違っているのかもしれない……と考えてしまうことこそが恐ろしい。そんな不安を抱いたウィンストンだったが、勇気を振りしぼって日記にこう書く。〈自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる〉。その行為は紛れもなく、重大な「思考犯罪」であった。
オーウェルが『一九八四年』を発表したのは1949年である。だから近未来小説ということになっている。もっとも21世紀の現在から見れば「過去」である。私たちは『一九八四年』に描かれる世界が、私たちが知っている1984年とかなりの部分で違うことが、時間のはからいによって特権的に分かる。イギリス王室は25年前も今も存在するし、幸いにも日本はイースタシアには組み込まれなかった。
しかし、本を読んだ誰もが『一九八四年』は絵空事ではないと確信するはずだ。巻末にトマス・ピンチョン氏が寄せた「解説」(本編に勝るとも劣らず、読み手の心を大きく打つ。ただし必ず本編の後に読むこと)によると〈アメリカにおいて、『一九八四年』は反共のパンフレットのごとくに販売された〉という。ビッグ・ブラザーをソ連共産党の指導者スターリンに見立て、社会主義とは一党独裁の人権抑圧社会だと告発してみせる寓話とみなされたのだ。ピンチョン氏によればそれは誤読に近いというのだが、朝鮮戦争の勃発直前というタイミング、さらに「赤狩り」が横行する中で、アメリカ国民がソ連を憎悪の対象として罵倒しつくす様子は、それこそがオセアニア国民がユーラシア(あるいはイースタシア)の捕虜が処刑されるのを一目見ようと殺到するさまと重なる。
そして何よりも、『一九八四年』のすべてのページから、今の日本社会によどむ甘ったるい毒のにおいがかぎ取れる。テレスクリーンと監視カメラ、Nシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)の共通点を挙げるのはたやすい。というよりも、監視社会のハード部分としては、今のほうが格段に進化している。監視カメラの顔認証システムに、個人情報が埋め込まれたICカードによる行動把握(買い物や電車の乗り降り)を組み合わせれば、携帯電話番号をキーにしてある人物の「1日」をパソコンディスプレイに画像で再現することが、おそらく今の技術でも可能だろう。
それよりも私がおののくのは、ウィンストンに党が強いる「二重思考」こそ、日本を安楽死させる麻薬だということだ。一例だけ挙げる。1999年に国旗・国歌法が制定され、教育現場では「君が代を歌わない」「日の丸に向かって起立しない」という教師や子どもへの圧力が高まっている。特に入学式、卒業式でそういう態度を取る教師たちが大勢、教育委員会から処分(減給とか停職とか)され、争いが法廷に持ち込まれるケースも少なくない。
一進一退あるが、現時点では裁判所の大方の判断は「教師に憲法が定めた思想・良心の自由が保障されるのはもちろんだが、君が代を歌う、日の丸に向かって起立するという行為は儀礼的なもので、思想・良心の自由を侵害するとはいえない。また、公務員は公共の利益のために命令に従うのは当然である」というものだ。ありていに言えばこういうことだ。「君が代を歌わない」自由はあるが、それは心の中で唱えている限りの話で、行動として表すのは公共の利益に反する(=みんなのメーワクってこと)。