ホリスティック医学が人間を「丸ごと」とらえるものであるならば、生きているときだけでなく、「生と死」をひっくるめて見てはじめて人間とは何かという問いへの答えが立ち上がってくるということかもしれない。そう考えてようやく、帯津氏が「場」という一見とっつきにくい物理学用語を使ってまで、命や魂の謎にアプローチしようとする理由が見えてくる気がし始めた。
しかし、そのようにあれこれと考えてしまうのは、私の頭が固いせいかもしれない。帯津氏の日常は超多忙だ。名誉院長という肩書ながら、癒やしを求めて全国から集まるがん患者を相手に、自ら外来もこなす。講演に呼ばれ、逆に全国を飛び回ってもいる。これだけ世の中に帯津ファンが多いのは、「生命場」の考え方がすんなりと共鳴しうるものだからではないのか。
週に一度、川越の病院で「名誉院長講話」というものが開かれているそうだ。入院・外来の患者を前に帯津氏がその日思いついたことを話す。テーマは自然と、常日頃考えている「死」についてのことが多くなる。
<死に関しては何回話しても、いつも新鮮な楽しさがある。患者さんのほうでも楽しくなくはないらしい。皆さん、いつもにこにこしながら聴いてくれる。ときどきは爆笑が起こることもある>
医者が死後の世界を楽しく話題にし、それにがん患者が爆笑する。そこで語られる死生観が小難しいわけはない。となると、先に額面通りに受け取れなかった「どうです、簡単でしょう」という帯津さんの言葉をもう一度よくかみしめてみよう、という気持ちになる。帯津氏は「生命場」について、こうも書いている。
<やがて、この魂は私たち人間の独占物ではないことに気づきました。だって、私たちの内なる生命場は閉鎖されたものではなく、環境の場とつながっています。つまり、私の魂は環境の中でも存在しているのです。これを裏返して考えてみると、私たちが日頃身を置いている空間で真空な空間はありません。ということはいかなる空間もエネルギーを持ち、このエネルギーが魂であると考えています>
命や魂は、私たちの体の中に閉じ込められているのではなく(帯津氏は命と魂を区別している節があるが、まあ、いいだろう)、肉体の殻を超えて外側に広がっている。否、その逆で、そもそも環境中にたたえられているエネルギーを、皆で共有していることになる。私たちが、かけがえのない自分一人のものと思って疑わない命や魂は、いわば個々の肉体に投影された像であり、根源は私たちの外側にあるというのである。
これもまたかなり浮世離れした考え方に見えるのだが、実は「場」の概念とよくなじむのだ。例えば昔は電源のいらない鉱石ラジオが普通だった。電気や電池を使わないのになぜ音を生むことができるかといえば、ラジオの電波(電磁波の一つ)から電気エネルギーを拾っているからだ。大本は電磁場のエネルギーということになる。
また、もっとたやすく実感できる私たちの外側にあるエネルギーといえば、重力だろう。仮に私が2階から飛び降りたら、1階の庭にある犬小屋を踏み抜くくらいの強烈な力(運動エネルギー)が生まれるが、無論これが私が日々筋トレに精進していて脚力があるからではないことは、誰にでも分かることだ。地球の重力場が、私の持つ質量にエネルギーを与えているのである。ちなみにメタボ体型の人なら「体重100キロの私は確かに重いが、この重さは私そのものではない」などと詭弁を弄してみるのもいいかもしれない。
ともあれそれになぞらえれば、環境全体に広がる命や魂のエネルギーが、私たちそれぞれの体の中にある何か(電磁場でいえば電荷であり、重力場でいえば質量にあたるもの)を励起させ、その一部が心、意識として立ち上がってくるということなのだろう。一人一人の人間は命や魂のエネルギーを本部から暖簾分けされた、いわばフランチャイズ支店のようなものかもしれない。
さて、このような私の「理解」が、帯津氏が説く「生命場」のありようと本当に重なっているかどうか、非常に心もとない。大誤解をしている可能性もある。それでも「命や魂の大本は私たちの体の外側にある」と仮定すると、これまで考えあぐねていた問題に答えを見つけるよすがが与えられる気もする。
例えば、私にとって「なぜ人を殺してはいけないか」「なぜ自殺をしてはいけないか」は難問中の難問であり続けている。適者生存の進化論に従えば、私が今ここにいるのは自然現象の一経過に過ぎず、つまりは「たまたま」である。別に両親は「私」を産もうと思ったわけではなく、たまたま生まれた私を息子として愛し、育ててくれたに過ぎない。また、私が「私」だと信じて疑わない心、意識でさえ私が自分で獲得したものではないのだ。
だから、私が今ここにいる理由があるかといえば、ないのである。私以外の人も同じである。人間はなぜ生きているのかと問われたら、それは生きているからだと答えるしかない。よって仮に誰かが私を殺したとしたら、それは法律的、社会的には非常に問題があるが、自然現象の一経過としては善悪を判断する対象ではないような気がする。道端の木の枝を手折るのと、一体どこが違うのかと思うのだ。
ところが、私の命や魂が私だけのものではなくて、皆の命や魂と体の外側でつながっていると考えたらどうだろう。人を殺すのは、自分の命や魂を傷つける損な行為であり、自殺をするのは他人の命や魂をもないがしろにする大迷惑なことなので、そう簡単に自分勝手は許されない。そのように考えると浮世離れどころか、非常に合理的な生命観ではないかと思い始めた。
ひたすら頭の中で帯津氏の言葉をこねくり回しているうちに、もう一つ気づいたことがある。それは、人が時折「私は生かされている」と、まるで悟ったかのようにしみじみと語り出すことである。人間は生かされているのだから、すべてに感謝の念を捧げる。それが長生きの秘訣である、と確信を持って話す人もいる。が、何度も反芻するようにつぶやいてみるのだが、どうしても実感できない。腑に落ちてこないのだ。