さて、この物理学用語としての「場」の考え方を医療に生かしているのが、今回紹介する『死を生きる。』というすごいタイトルの本の著者、帯津良一医師である。埼玉県川越市にある帯津三敬病院の名誉院長として、がん患者(多くは末期とされる再発・転移がん患者)の治療に当たる日々を送る。豊かな臨床経験に裏付けられた独得の死生観には、病を持つ人のみならずファンが多いが、その核となるのが「生命場」という考え方だ。
帯津氏はこう書く。〈魂は〝場〟のエネルギーだと割り切って、なんの疑いも持ちません。ある物理量がある空間に連続して分布しているとき、物理学では、これを〝場〟と呼んでいます。私たちが日頃、馴染んでいる〝電磁場〟は電気と磁気という物理量が私たちの周囲の空間に連続して分布しているから〝電磁場〟なのです。私たちの体内にも電磁場はあります。ここまでは誰も疑わないでしょう。しかし体内にあるのは電磁場だけではありません。重力場もあります。まだ発見されていない物理量がより生命に直結する場をつくっているかもしれません。だから、とりあえず、それらの場をひとまとめにして〝生命場〟と呼ぶことにしました。そして、内なる生命場のエネルギーを生命(いのち)=魂と考えることにしたのです。どうです、簡単でしょう〉
どうですと言われても、である。ちんぷんかんぷんとは言わない。生命力という言葉があるように、命とか魂も何らかの実体を持つ力、エネルギーであるとすれば、他の物理的な力と同じく「場」の概念によって解釈できるはずであり、電磁場、重力場だけでなく、生命場なるものも存在する――ということだろう。
しかし、どうも心にすとんと落ちてこないのだ。一つには「場とは何か」と分かったふうなことを書きながら、私自身が基礎的な物理学のトレーニングを受けていないことが原因だろう。そしてもう一つ、こちらのほうが何倍も重要だと思うのだが、なぜ命や魂のことをわざわざ「場」の概念で記述しなければいけないのか、という疑問である。もっと言えば、命や魂の正体をつきつめて考えたことがない自分に気づかされるのである。考えたことのない問いに突然解を示されても、戸惑うばかりなのは当然だろう。
言い訳をするわけではないが、それは私に限ったことではない。ヒトゲノム(人間の全DNA配列)が解読されてしばらくたつが、人間はいまだに生き物を一から創り出すことはできない。それは「命」とはそもそも何なのか、生き物は一体なぜ生きているのかが、生命工学(バイオテクノロジー)が飛躍的に進歩した現在でも、皆目分からないからだ。命が何か分からなければ、「死とは何か」も分からない。
折しもこの7月、移植用の臓器が足りないから脳死者からもっと簡単に臓器を取り出せるようにするんだ――ということで、臓器移植法が改正された。「脳死=人の死」と決めていいのかという問いかけを前にすると、誰もが立ち止まる(ていうか、立ち止まらない人がいるのが信じられないのだけれど)。移植医療は人の死を前提に成り立っている。死とは何か、命とは何かの議論を欠いたまま、この問題を前に進めるのは犯罪的である。
当たり前かもしれないが、医療は生きている人しか相手にしない。今でこそ末期がん患者に対する緩和ケアなど、最後まで人間らしく生き、できるだけ安らかな死を迎えられる終末期医療が求められているが、それでも患者が死ねば、そこで一巻の終わりである。生をまっとうできればいいのであって(言うは易し)、死とは何かを考える必要はない。
帯津氏が違うのはそれから先、つまり「死後の世界」への確信があることだ。帯津氏の言葉をいくつか本から引用してみたい。
<生老病死には当然のことながら苦しみが伴う。しかし、その苦しみは進化する苦しみなのだ。苦しみながら進化し続けて、わが内なる生命場のエネルギーは死の直前に最高潮に達する。そして生命場は大爆発を起こして虚空の中へと寛放していくのである>
<虚空のいのちに始まりも終わりもない。肉体が死んでも、ここに在り続けるのである。永遠の存在なのだ>
<死後の世界はあるかないかということではなく、信じるか信じないかということでもなく、それがないと、私たちの生が成り立たないわけだから、自明の存在ということになるのではないだろうか>
精いっぱい背伸びをして読み解こうとすれば、人間の命は死によって終わるのではない。死という華々しいクライマックスを迎え、さらに死後の世界へ飛び出していくためにこそ、人間は生きているということだろうか。
帯津氏が標榜する「ホリスティック医学」は全人的医学とも訳されるように、人間をそのまま丸ごととらえる医学、医療である。臓器ごとに専門が細分化された西洋医学に、体全体の「つながり」を重視する東洋医学(中国医学)を併せ、さらに代替医療も取り入れることによって、一人の人間としての治り、癒やしを求めていく。
本の中で帯津氏は、乳がんのリンパ節転移によって「上大静脈症候群」を患い、苦しんでいた患者にアロマテラピーが効いたエピソードを引きながら、こう語っている。<単なるフロックかもしれない。しかし、フロックだろうとなんだろうと効けばいいのである。こういう目に何回かあうと、どんな方法にも期待感が持てるようになるものだ>
理屈はどうあれ、患者にとっては治る、楽になることが大事なのだ。その考えの延長線上で「死後の世界」も語られる。いわく<死後の世界を確信することができれば、死の恐怖は薄らぎ、少しでもおだやかな気持ちで死を迎えることができるのではないか、というのが現場での実感だし(中略)、どのみち(死後の世界があるかないか)わからないなら、あると信じたほうが、医療現場ではありがたいのである>。