数年前だったか、ある小説で夜のジャングルに一人取り残され、遠くに猛獣の雄たけびを聞いて震え上がる主人公――という場面を読んだとき、「必ずしも食物連鎖の頂点にいるわけではない人間」を思って、頼りなさに愕然としたことがあるが、それ一度きりである。何だかんだ言いながら、私自身の視点がタコツボ化してしまっているのである。
だから、命の仕組みを「生命場」という観点から説く帯津氏の「どうです、簡単でしょう」という問いかけに、戸惑ってしまったのであろう。命とか魂とか言うまでもなく、人間が一人で生きていかれないのは当たり前なのだ。その当たり前のことが、今どきはなかなか身に染みて分からない。人とつながることで人生は豊かにできると身をもって知っている人ならば、「ええ、先生。人間は生かされているっていうことですね」と即座に答え、すっきり腑に落ちた顔をすることだろう。
帯津氏は食道がんの専門医(外科医)である。1961年に東大医学部を卒業し、インターンになった。もちろん、最初から「生命場」という独自の死生観を持っていたわけではない。さほど根拠のない「エリート意識」を抱き、手術の対象としてがん患者の「体」しか見ていなかったという。心を眺める余裕はなく、いわんや死をや、である。
悔恨の言葉が、本の中に何回も出てくる。例えば、こんな具合だ。<言ってみれば自転車やテレビの修理と同じことなのだ。はい! 修理しました。と言って代金をいただくといったふうなのである。一方、再発して入院してくると、それなりの手を尽くすが、それほど気持ちがこもっているわけではない。手術に対する情熱に比べればなきに等しい>
この本は、若き外科医としてとにかく手術の腕を上げようと目をギラつかせていた頃から、人間を臓器ごとにしか見ない西洋医学一辺倒に疑問を感じ、いろんな人々との出会いの中でやがて人間をまるごととらえるホリスティック医学への道に踏み出していく、まぶしい青春譚、そして半生の記でもある。
帯津氏の酒好きは有名だ。毎日晩酌を欠かさないといい、「晩酌は健康法なのだから『休肝日』などもってのほか」と半分真顔で言い切る。だから、本の随所に酒を飲む場面が登場する。もとより道を究めるような飲み方ではない。仕事仲間との飲み会であったり、夕食のついでの一杯であったり、全然飾ったところのない書き方だが、それが実にいいのだ。試みに少し引いてみる。
<義経食堂は病院の真ん前にあり、店先は雑貨屋で、奥にテーブルが三つほどの小さな食堂。このテーブルに陣取って、店の前の通りを眺めながら、野菜いためを肴にお銚子を二本、そのあとはカツ丼>
<空手仲間と五、六人でよく出かけていったのは駅前の大衆酒場の「角山」である。いつもわいわいと賑わっている店だった。ここでの好物はポテトフライだった。昔、縁日でよく食べた、串に刺したポテトフライである。縁日では揚げ立てをバットに充たしたウスターソースの中にジュワと入れてから手渡してくれる>
<飲むのはビールと焼酎だが、これはいつもふんだんにある。どうしてだか記憶にない。肴はほとんどの場合、湯豆腐である。冬はもちろん夏でも湯豆腐である。夕方になると、街の豆腐屋さんが手押し車のようなものを押して豆腐を売りにくるのである。ここの豆腐は一辺が八センチほどの正立方体である。一つひとつがブリキの正立方体に納まっている>
<芳林堂に替わって、いちばん好きな書店は神保町にある東京堂書店だ。ここも落ち着くし、いい本に巡り合うことの多い書店だ。池袋に比べて私にとっては地の利が悪いが、ここで掘り出し物に当たって、近くの揚子江飯店で焼ソバを肴に飲む生ビールの味は格別だ>
どうです、おいしそうでしょう。たとえ忙しい時間の合間でも、その日巡り合った一食、一杯を心から楽しんでいる、そんな空気が伝わってくる。本を読むだけで、帯津氏と杯をやり取りしているような気持ちになってくる。腹が減り、のどが渇いてくる。
実は「空気」とは「場」のエネルギーであるらしい。私たちの食いしん坊や酒飲みの心が、本の中に立ち上がる「場」によって揺り動かされ、帯津氏と同じ空気を感じることができるのだ。逆に「三度の食事を錠剤で済ませられたら、どんなに楽か」などと考える人には、何ら影響を与えない。それは、空中に電波が飛び交っていてもアンテナのないラジオからは音楽が流れてこないのと同じである。
「場」とは本の活字を通じて著者と読者の間でも形成されることが分かった。すると、世の中にはいろいろな「場」が存在することになる。事実、帯津氏はこう書いている。<私たちは、場の中の存在である。家庭、学校、職場、地域社会、自然環境、国家、地球、宇宙、虚空など(註:そのほかにも、広場、市場、酒場、修羅場、正念場などがある)、さまざまな場の中に重複して存在している>
察しのいい人ならすでにお気づきかもしれない。酒場も文字通り「場」の一つ、ということが言いたいのだ。冒頭で触れたように、酒場にも店独特の空気を作る「波長」がある。「場」を満たす波とけんかをしていては、居心地良く酔うことはできない。杯を傾けながら波間をたゆたううちに、自分も波の一つになる。酒場という「場」の空気、エネルギーは私の体を揺らし、また私の体を通して、他の客にも伝わっていく。客は酒場の空気に引かれ、また客が酒場の空気を作る。客筋がいいとか悪いとか言うのはそういうことである。
池袋の居酒屋Fのカウンターで肩をすくめながら飲んでいる私は一人の客であり、そして同時に居酒屋Fそのものでもある。がらがらとガラスの引き戸が開いて、新客が「座れるかな」と少し不安気な顔をのぞかせる。誰もが押し黙ったまま、わずかだが、しかし確実に数ミリ分、寄せ合う余地のないはずの肩を寄せ合う。「人は生かされている」というのはこのことだと、私は少し分かったふりをしてみるのである。