では、なぜそこから「走る女」に変わったのか。ご本人が「切実な理由」として述べている。<結婚生活が行き詰まり、別居から離婚へと至った苦しい日々に、すがりつくようにシューズを履いて皇居を走り始めた。もしあのとき走っていなければ、アルコール依存症におちいるか、マンションの八階にあった仕事場のベランダから飛び降りるかしていたに違いない>
結婚に失敗したことと、皇居ランを始めることの関係が私には全く分からない。もしかして……なのだが、著者は昔からむしゃくしゃして心から吹き飛ばしたいことがあると、何はともあれ走り出していたのではないか。土砂降りの雨の中を走るとか、夕日に向かって走るというのは1960年代以降の青春学園ドラマには欠かせないシーンであった。
私が高校生の頃、ラグビー部の連中は雨の日にしか練習しなかった。ぬかるんだグラウンドで転げ回り、全身泥だらけになってこそのラグビーであり、当時もまた青春そのものであったのだ。1960年代半ばに生まれ、バブル時代に就職した私たちは「新人類」と揶揄された世代だが、カラーテレビの映像によって刷り込まれた「スポ根」の残滓は、今もって容易にぬぐい去れない。衿野さんもまた同じだったのではあるまいか。
もとより憶測である。なぜ「離婚→マラソン」なのか、そのへんの心の機微は描かれていないし、本の趣旨はそこにはないのだから突っ込んでも仕方がなく、そういう疑問は本を読んでいるうちにどうでもよくなる。良くも悪くも、このあきらめの早さが旧「新人類」世代の特徴でもあるらしい。
第1章のタイトルは「マラソン大会は縁日だ!」である。この本の最大の値打ちは、衿野さんが参加した全国各地、さらに海外のマラソン大会の実践リポート&ガイドだろう。私はマラソン大会というのはただ大勢で走って、とりあえずタイムを測って、参加賞にタオルを一枚もらう程度――と思っていたのだが、参加者のみならず応援の人も楽しめるように、大会ごとにさまざまな工夫が凝らされていることを知った。例えば2009年2月に行われた「第18回東京ベイ浦安シティマラソン」のリポートにはこうある。
<一〇時半過ぎ、体育館の前庭には、たくさんの出店があった。リサイクルショップやスポーツショップが軒を連ねる、充実したショッピングゾーンだ。豚汁が食べたいのに見当たらず、甘酒の屋台は三軒もある。立ち飲み居酒屋の出店では生ビールやチューハイを売っている。焼き鳥は行列していたのであきらめた>
実に楽しそうではないか。「一〇時半過ぎ」は夜ではなく午前だが、まさに縁日の光景だ。もっとも、これは衿野さんが10キロのレースを走り終えた後の、会場かいわいの描写である。前段にはもちろん、レース前のトイレは行けるときに行っておくべきだとか、目立つかぶりものをしてテンションを上げるのもいいとか、ペース配分を間違わないためにラスト1キロは下見をしておくべきだとか、ランナーのための心得がいろいろ書いてあるのだが、私は走ること自体には興味がないのである。
しかし、同じ朝の10時半からビールを飲むのでも、前日の泥酔を反省しながら自宅の台所で迎え酒をするのと、きりりと澄んだ朝の空気で胸腔を洗い流し、10キロ完走した達成感とともにぐいっと胃の腑に流し込むのとでは、百倍千倍一万倍も違うことは私にも分かる。リポートはさらにこう続く。
<マラソン大会は朝が早いぶん、一日がとても長く感じられる。私は本日のメインイベントをすませ、すでにくつろぎモードに入っているが、世間はまだランチタイムなのである。(中略)二時間ゆっくりと温泉を楽しんだ。その後、持参の着物に着替えて、「浦安ランナーズクラブ」のパーティに参加した。二二時半、帰宅。汗に濡れたウェア以外の荷物は片付けもせず、ベッドへ直行。春泥のような、ぬくもりのある眠気に包まれ、気がついたら朝だった>
いいなあ。充実しているなあ。ここで愚痴っても仕方がないのだが、年をとって頭の回転が遅くなったせいか、相対的にやたら時間がたつのが速く感じる。例えば日曜日の午後3時頃といえば、1週間のうちで最もゆったりと落ち着く時間帯のはずだが、最近では「もう3時か、もう少しで夕方だ。すぐに夜になって、ああもう明日だ」と焦り、心がささくれ立って、そこから何かをしようという気にならない。活動量が低下するから、単位時間当たりの使用価値が下がり、ますます時間は薄っぺらになっていく。