続いては、これもある意味、「慊い」(ここから読んだ人のために、「あきたりない」と読みます)人々のベクトルが向かうその先にある「モノ」について記述した本である。人々の(99.999%、それは男である)欲望や妄想や悲しみを文字どおり「無言で」受け止める慈悲深い「モノ」、ラブドールという人形のお話だ。
事実なのか、はたまたまことしやかに作られた伝説なのか、かつてこの国では、南極越冬隊員が、長期間に渡る南極観測プロジェクトの無聊を慰めるため、性処理用の人形、すなわちダッチワイフを携行してかの地に向かったという噂が広まっていた。その名を「南極1号」。ミもフタもないネーミングを気軽に笑ってしまうことはたやすいが、そこを基点に果敢に「ダッチワイフの戦後史」(本書の副題)をあぶりだそうとした労作がこの本である。
ダッチワイフ=Dutch Wife、直訳もなにも「オランダ人妻」としか訳せないこの一語の背景には、かつて覇権を争ったオランダとイギリスの歴史があるという、まことに文化史的な記述から本書はスタートする。イギリス人は「ケチな」とか「質が悪い」とかいうネガティブな形容を幅広く「Dutch」の一語でカバーしてしまったのであり、「オランダ妻」もその流れの中にあるということなのである。
南極越冬隊の真偽についてはむろんここでは書かないが、こうした冒頭の記述スタイルからわかるとおり、本書は男のスケベ心や興味本位なモチベーションがむろん絶無ではないだろうがかなり希薄であり、個人的な見解を極力廃した記述スタイルとともに、なかなか禁欲的なたたずまいの書物なのである。
【まずシリコンも成形してから塗装するのではなく、原料の段階から理想的な肌の色に調色してやらなくてはいけません。でも原料メーカーの人にただ「肌色」とだけ伝えても通じない。ラブドールは肌の色がほんの少し明るかったり暗かったり、あるいは赤みがかっていたり黄色っぽかったりといった違いで、印象がまったく変わってしまうんです。こうした微妙なオーダーに応えられるメーカーを見つけるだけで、ずいぶん時間がかかりました。】
何の話をしているかというと、「ラブドール」(現在では「ダッチワイフ」ではなくこの名称が一般的)開発者の苦闘と喜びについてである。『南極1号伝説』は4つのパートに分けられているが、それぞれ歴史、素材、開発者の話、そしてユーザの話、となっている。素材と開発者の話で2つの章を割いているのがやはり特徴的で、まずは「ラブドール」のようなものを使ったり所有したりする人間の側よりも、「ラブドール」という物質そのものの性質をキチンと読者に提示しようという姿勢に、このテーマを選んだ著者、ライターという職業を生業とする著者の誠実さを感じる。
『南極1号伝説』のある種研究者的な、それでいてライターらしいフットワークの軽さも機能したテキストを読み進めていくと、この本がいま、このタイミングで出た理由というのがちゃんとあることに気が付く。なによりもインターネットが登場し、それが少なからず成熟した状況の中で、いわゆる「アダルト」と呼ばれる分野全般に言えることだが、個人に向けた個別性、秘匿性が確保され、同時に同好の士たちのつながりや「オフ会」の盛り上がりなどでベースが醸成され、そこにライターという格好の存在が参入して、あるまとまった言葉の束が与えられる、ということである
ちなみにこの『南極1号伝説』は昨2008年4月にバジリコから刊行された単行本が、はやくも今年8月に文庫化されたものだ。
著者の高月靖氏については不勉強ゆえ何も知識が無かったが、プロフィールを見ると編集者を経由したライターであり、『韓流ドラマ、ツッコミまくり』『徹底比較 日本VS韓国』など、これまで韓国をテーマにした著作を何冊か書いている方のようだ。筆者は「ライター」という存在について、これはダンゼン良い意味で言うのだが、エロもエコも食も政治もサブカルも、興味の赴くままにスッとすぐヨコに行けるのがライターであり、その「軽さ」はぜんぜん、一つのテーマについて1冊の本を書くときの「浅さ」にはならないと思っていて、『南極1号伝説』はまさにその好例になっていると思う。
【例えばペットに感情移入して、それが人間であるかのように話しかける飼い主は多い。だがそのせいで飼い主が人間を動物のように扱う危険人物だと考える人はいない。同様にラブドールのユーザは人形を生きた人間として扱うように見えることもあるが、それは彼らが生きた人間を人形として扱うといことではない。】
先に「個人的な見解を極力廃した記述スタイル」と書いたが、上記のような private voice が聴かれるのは、ようやく「文庫版あとがき」に入ってからのことである(と、いうことは、単行本を上梓した際には、そんなつぶやきはすべて禁じていたのだろうか)。そんなつつましさは、たぶん、開発者やユーザに取材して拾ったそちらの「声」を、より正確に再現することのほうに向けられた情熱と通じているのではないだろうか。
良きライター仕事とはなにか、そのことを教えてもらった気がします。ラブドールユーザの負の側面にもう少し踏み込んで欲しかったので、1つ落として☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |