「チェッ、またこんな番組やっていやがる」と思いつつ、悲しいかな、気が付くとついダラダラとテレビを見続けてしまうということは、まま、ある。最近はなぜだか知識の多寡を単純に競うような、学力テストみたいな野暮なクイズ番組が多くて、先日もそうした番組を観ていたら、「アタマがいい人」としてよく出演している漫画家のやくみつるが難読問題で苦しみ、出された問題をパスして別の字に変えてもらい、それでようやく事なきを得る、という一幕があった。
で、その時、パスした難読漢字というのが、「慊」、つまり「あきたりない」であり、筆者は思わず、ニヤリとしてしまったのである。そうなのだ。「平成の破滅型私小説作家」(本の惹句に書いてある言葉)西村賢太の読者であれば、この問題には難なく答えることができる。やくみつる氏が答えることができなかったのは、知力まして学力不足だからではまったくなく、ひとえに彼が西村賢太の本を読んでいなかったという一点に帰着する。
慊い。通常なら「飽き足りない」と書くところである。西村賢太氏の前作『小銭を数える』を読んで、その時、筆者は生まれて初めてこんな字を目撃して、そのことはこのBook Japanのレビューにも書かせてもらったが、最新作の中でますます「慊い」は健在なのである。
【また秋恵には、そうした友人のいない自身の状況を、ともすれば世間一般並みの風潮に照らし合わせて、惨めな、慊いものと思ってしまう、自分に自信を持てぬ弱い面が確かにあり、(以下略)】
――「廃疾かかえて」より
【そのうちのパンツの方を、ちょっとひろげて観察してみたが、やはりそれは夕刻来、未だ瞼に焼きついて離れぬ、かの小娘の女性そのものと云った感じのショーツとは、同じショーツでもこうも開きがあるかと思われる程の、単に三十路前女の排泄器官の腥気(せいき)のみが鼻をつく、色気もなければ艶もない、甚だ慊いものであった。】
――「膿汁の流れ」より
いささか眉をひそめるような箇所を引用してしまった気がしないではないものの、ここには西村賢太の文学において基礎となる下地がある。西村作品では、突発的な事件とか、他者の要請、ないしは抑圧によって出来事が生起するといった、外部からの作用というものがほとんどない。それで起こることといえば、主人公、というよりは語り手である貫多(いまどきこんな名前の三十代・四十代の人がいるだろうか。むろん、「賢太」に類似する名を「私小説作家」らしく造型したものであろう)と、同棲している秋恵とのあいだでのみ起こる事柄がすべてである。いや、もっとハッキリいえば、西村賢太の小説においては、他愛もない痴話喧嘩以外の一切の出来事は起こらないといっていい。
女はスーパーのレジのパートで、男はしがない私小説作家。絵に描いたような「下流」生活者には友人もなく、つかの間の平穏を打ち破る原因をよくよく考えてみると、これはどうしたって「慊い」から来ているのである。
「慊」というこの文字、「嫌悪」「嫌い」の「嫌」という、負の意味合いが強い文字から「女」を奪いとられ、なすすべもなく一本の棒としてただ突っ立っているようなその文字が喚起する世界は、すでにそれなりに腹はくちくなっているものの、もうひとこえ欲しいではないかという「飽き足りない」とは事情を異にする。「飽き足りない」とは文字どおり「飽きる」ことが足りないのであり、それはグルメの流儀である。しかし「慊い」は、小市民的な平穏を入手したとはいえ、そこからどうしたわけかむざむざ逸脱してしまおうという性のような悲しい心性の話なのであり、つまりは誰が仕向けたのでもない、自らの心中にむらむらと沸いてくる黒雲のごとき猜疑心が一気にザーッと雨を降らし、下流男女をびしょぬれにし(食卓に乗った料理などが降ってくることも多いようだ)、後悔した時にはすでに風邪をひいているというような、それが「慊い」の世界なのである。
こんな小説世界を、どうして愛さずにいられよう。しかも今回の『瘡瘢(そうはん)旅行』は、「廃疾かかえて」「瘡瘢旅行」「膿汁の流れ」(三つともなんと視線の低いタイトルだろうか)の三篇を収録する中で、なんと男女揃っての旅行という新機軸まで用意されている。これまで、金の無心や、私淑する今は亡き昔の私小説作家の帚苔のためにひとり出向くことはあっても、女を伴っての旅はなかった。そしてその旅の顛末は…… だいじょうぶ。西村ファンをけっして裏切らない「低さ」のうちにさっさと推移しいていくことになるから。
最後に、目立たぬ部分でありながら、西村文学の真骨頂とも言える箇所を抜いてみる。このみみっちさと、作家としての記述の確かさ、小さすぎる世界の把握の仕方を「おもしろい」と感じることができれば、あなたも西村賢太のファンになるだろう。
【見るとそれは、秋恵がこの日、久美子と共に昼食を摂った場所らしい、高崎辺のイタリア料理店のレシートだったが、印字されている合計三千円ちょっとのその内訳と云うのは、貫多の目には些か平仄(ひょうそく)の合わぬものとして映った。何より、そのレシートが秋恵のガマ口にあると云うことは、当然、その勘定は彼女が馬鹿のように、人好く引き受けてやったものに相違あるまい。店側に対する煩瑣を厭い、取りあえず二人の分を暫定的にまとめて彼女が払い、店を出たのち相手がたの分を受け取る、なぞ云う芸当のできる女ではないのだ。
察するところ、九百五十円のランチ・セットと云うのは、つましい秋恵の精一杯の注文品であり、千五百円のペスカトーレと六百円のグアバジュースなるものの方は、かの久美子が平然と誂えてくれたものであろう。そして平然と、秋恵に馳走になったものであろう。】
これが、文学である。こういうものが、文学だと思う。なにか西村賢太氏が途方も無いものを書く日が出来することを期待しつつ、この作家にはずっと☆☆☆☆評価を続けます。
北條一浩さんによるもうひとつの西村作品書評もどうぞ
『小銭を数える』レビュワー/北條一浩 書評を読む
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
---|---|
おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |