『ペルディード・ストリート・ステーション』(以下『PSS』)は、間違いなく2009年6月のエンターテインメント新刊最高傑作である。ただし情報量が半端ではないため、内容紹介は長めにおこなわざるを得ない。
舞台となる大都市ニュー・クロブゾンは、《バス=ラグ》と称される、蒸気機関と魔術学を文明の基礎とする異世界にある。その中央にはタイトルにもなった巨大な駅、ペルディード・ストリート・ステーションがあり、ここから放射状に鉄道の線路が伸びている。駅のすぐ横には民兵の巨大な塔がそびえ、市中にスカイレールを張り巡らせている。政治体制は少数独裁制で、市中の治安を担うのは民兵だ。そしてこの大都市には人類の他にも多様な種族が住んでおり、それぞれがコミュニティを形成、この都市を極めて猥雑なものとしている。ニュー・クロブゾンは知的種族の坩堝なのである。
そんなニュー・クロブゾンに住む主人公の科学者アイザックは、遥か彼方の砂漠にいるはずの種族、鳥人ガルーダ族の男ヤガレクの訪問を受ける。彼は部族内で禁忌とされる罪を犯し、罰として翼を取られてしまったのだ。ヤガレクはアイザックに、自分のための新たな翼を作ってくれと頼む。
この依頼を引き受けたアイザックは飛翔の研究を始めるが、ある日彼は、研究材料として謎の芋虫状の生物を入手した。試しにドラッグを与えると、生物は一晩にして巨大化、やがて蛹を作り、アイザックの監視下にない時に孵化して逃げ出してしまう。実はこの生物は「夢蛾」といい、知的生物の夢を食い荒らし精神を崩壊させてしまう恐るべき存在だったのだ。アイザックの研究所から逃げ出した夢蛾は、ニュー・クロブゾン政府の管理下にあった数匹の仲間を解き放ち、一緒に市中に飛び去る。そしてニュー・クロブゾンの無辜の市民たちが、次々にこの生物の餌食となり始めた。また一連の過程で、アイザックたちは、政府と犯罪組織の黒い関係に気が付いてしまう。夢蛾を追う他に、政府や犯罪組織をも相手にしなければならない。進退ここに窮まったかに見えた時、都市の機械の集合知性が助力を申し出る。
一方、ニュー・クロブゾン総督ラドガダーは、夢蛾の被害を抑えるため、地獄の大使を召還する。しかし彼ら悪魔たちも、夢蛾に恐れをなして協力を断って来た。困り果てたラドガダーらは、異次元に巣食う大蜘蛛ウィーヴァーを呼び出して、夢蛾退治を依頼する。ウィーヴァーは要請に応じたように見えたが、異次元の存在ゆえ完全な意志疎通が難しく、その真意はいまいち掴みかねた……。
基本となるストーリーラインは「都市を危機に陥れたモンスターを、仲間同士助け合って倒す」というもので、要は冒険活劇、とてもシンプルである。しかしチャイナ・ミエヴィルは、そこに分厚い肉付けを施す。
最大の特徴は、本筋に関係ない細部に至るまで、作者のアイデアが横溢していることだ。上記の内容紹介を、大方の読者は「長々と紹介しやがってこの無能レビュアーが」と思っただろうが、実はこれでも必要最低限なのである。作品内では、ほとんど毎ページのように《バス=ラグ》独自の事柄・光景・設定が現れて読者を翻弄する。生物めいたタクシーが走りまわり、夜の街にはカマキリの鎌を持つ義賊が出没、市中の広場には古代の超巨大生物の骨格が放置され、廃棄物処分場のジャンクがいつの間にか勝手に意識を持ち、ケプリの芸術家たちは自分の唾液でモニュメントを作り、辺境の未開種族が実は移動式の大図書館を持つ……。これらはごく一部であって、数え出したらきりがない。細かいエピソードも頻出し、話が数ページにわたって脱線するのもしばしばである。
面白い人物がたくさん出て来るのも特徴だ。たとえば、メイン・キャラクターの彫刻芸術家リンである。彼女は人間ではない。リンはケプリという種族のメスで、首から下は人間の女性だが、頭部が甲虫なのである。具体的に言うと、目はもちろん複眼で、触覚も付いており、口の横には大顎がある。さらに頭頂部には羽根が折り畳まれて収納されており、首の横には肢が付いている(これらは全部もぞもぞ動きます)。要するに、人間の頭の代わりに、ばかでかい甲虫が一匹丸ごとくっ付いているのである。ケプリは音声で喋れないが、代わりに身振り手振りで意思疎通する。何をどうやったらこんな生物がうまれるのかさっぱりわからないが、グロテスクなことは確かだ。虫嫌いの人なら想像するだけで鳥肌が立ちかねない。ところがコレが、主人公の恋人なのである! アイザックとリンの恋愛は種族の壁を越えており、普通だったら読者としても燃えるところだが、頭が虫の人物を愛らしく思うのはさすがにハードルが高過ぎる。しかし作者は、リンの精神(芸術家としての気概、ケプリ種族としてのアイデンティティー上の苦悩、アイザックとの恋愛関係への迷い)を稠密に描き込むことで、読者を力技でねじ伏せる。やがてリンはピンチを迎えるが、その頃になれば我々は彼女にすっかり感情移入しており、一体この後どうなってしまうのかと手に汗握っているはずだ。
彼女に限らず、いやそれどころか端役に至るまで、『PSS』の登場人物描写はとても彫りが深い。登場人物は種族・職業・立場が多岐にわたり、頭数自体も極めて多いが、ミエヴィルは彼らの描写をカットしたり、性格をシンプルにするといったことは一切ない。ほぼ全員に強い個性を付与し、人間ドラマにリアルな奥行きを与えているのである。真にヒロイックな、あるいは超然とした登場人物がいないのも特徴で、彼らの言動は最初から最後までとても人間臭い。「洗練」からは程遠い印象を残すが、その分読み応えたっぷりで「小説を堪能した」というずっしりした感触を得ることができる。
そして最も重要なことは、種々雑多な要素によるカオスな雰囲気が、架空の大都市ニュー・クロブゾンのリアリティを極限にまで高めているという事実である。美しく整った都市など絵空事だし魅力にも欠けるとばかり、チャイナ・ミエヴィルは、様々なアイデアを、敢えて整理整形しないままぶち込んだ。そして二段組600ページ超というヴォリュームをフルに使って、ミエヴィルはこの大都市を描破したのである。ニュー・クロブゾンは、とても汚く、やかましく、臭く、闇に満ち、醜悪で、危険で、しかしだからこそ素晴らしくダイナミックなものとして、強烈な存在感をもって読者に迫って来る。SFやファンタジーは、ときに作品内で世界を丸ごと作り、それ自体を読者に堪能させるが、『PSS』にはその最良の顕現があるのだ。
確実に2009年度ベストを狙える作品であり、評価はもちろん☆☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |