日本で2006年1月に刊行されたギジェルモ・マルティネス『オックスフォード連続殺人』は、現代翻訳ミステリの世界に久々に登場した本格ミステリの新星として話題になった。また彼はアルゼンチンの推理作家であるという点でも目を引いたのである。『ルシアナ・Bの緩慢なる死』は、そんなマルティネスの本邦紹介第二弾である。
ある日曜日、作家の「私」にルシアナから10年ぶりに電話がかかってきた。10年前は有能な美貌のタイピストだった彼女は、大作家クロステルに長年狙われていると愁訴する。この10年間、彼女に近しい人物が相次いで亡くなっていた。ルシアナによれば、これら全てがクロステルの殺人計画によるものだという。半信半疑の「私」であったが、とりあえずルシアナの言っていることが本当なのか確認を始めた……。
本格ミステリでは偶然は忌避される要素だ。ある人物の周囲で五人も六人も人が死に、その全てが「偶然でした」の一言で片付けられたら、ミステリ・ファンは怒り出すはずである。しかし、では現実にある人物の知り合いが複数死んでしまったとして、それが偶然ではあり得ないのかというと、これはもちろんあり得るのである。人の死に接して、何かの符合があった場合に「これは殺人だ」という結論に飛びつくのは、ミステリでは常識的な展開だが、一般的には「過剰反応」あるいは「被害妄想」に他なるまい。『ルシアナ・Bの緩慢なる死』は、ルシアナ周囲の死が偶然なのか必然なのかを玉虫色にぼかしつつ、ミステリと現実の間に横たわるこの乖離を鋭く突いて読者を翻弄する。また作家とそのタイピストが主要登場人物を務める作品らしく、文学作品のモチーフや作中作も出て来て、メタフィクションめいた要素も導入される。これらの問題意識や意匠は、中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫)に代表される、日本の思弁的・実験的な本格ミステリの一潮流と共通している。
さらに本書は、運命の皮肉を描いた文学としても読み解ける。主人公の「私」は、10年前ルシアナに懸想していたが、現在、ルシアナはかつての美貌を失い、また多くの家族を失った。またこの10年間「私」は小説を発表できておらず、赫々たる名声を誇るクロステルとの差は開く一方なのだ。だがクロステルの方も幸福な人生を歩めていたわけではない。彼はこの10年で妻子を失っており、その原因がルシアナにあると逆恨みできる状況にある(だからルシアナは、クロステルを怖れるのである)。彼らによる「過去」への追憶、あるいは「今」に抱く満たされぬ想いや劣等感。そして、物語ることによる現実への抗い。本書はそういったものを余さず汲み取っている。終盤、「私」とクロステルは一連の事件に対する見解を披歴し合うが、この対決こそが本書の白眉であり、謎と解明によってカタルシスを得るミステリのセオリーをしっかり踏まえつつ、さらに一歩その先に踏み込んだものとして、読者に強い印象を残すだろう。
今年の翻訳本格ミステリの大収穫であり、評価は☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |