ちょうどこの本を読んでいるとき、台風9号が懐かしい熱帯の空気をはるばるこの横浜まで運んできてくれた。部屋の中の湿度は80パーセント。まるで8月のタイのようだ。1985年8月、ぼくはタイのカラワン楽団や何人かの日本の友人たちと、マレーシアとの国境の町、スラタニやハッジャイまで行った。台風が運んできた空気は、そのときの南の空気によく似ていた。
この本の著者、鈴村和成さんは、カメラとペンとノートを鞄に入れて、マレーシアやインドネシアまで詩人、金子光晴の足取りをたどる旅に出た。なぜ金子光晴と森三千代が2年間暮らしたパリではなく、その行き帰りの途中に立ち寄っただけのマレーシアやインドネシアなのか。そこには詩人ランボーの影がある。
ランボーは1876年の7月から8月末までの40日間、オランダ植民地の雇われ兵としてジャワ島のサラティガとスラマンにいたことがあった。オランダで植民地軍に志願してはるばるジャワ島まで来たけれど、脱走をしてしまう。その直後の足取りはいまいちよくわからないようだけど、ランボーがジャワ島にいたことがあるという事実が、ランボーの詩の日本語への翻訳者であり、ランボーの旅の研究家でもある鈴村和成さんにジャワ島への旅を決心させる。なぜならジャワ島でのランボーの足取りを追ったランボーの研究者は過去に一人もいないから。そしてその旅のガイドブックとなったのが、かつてジャワ島やマレーシアに滞在して、フランスまでの旅の費用を捻出するために絵を描いていた詩人、金子光晴の『マレー蘭印紀行』(中公文庫)だった。
金子光晴には4冊の自伝があるが、この『マレー蘭印紀行』の大半は旅行中に書かれていて、旅から40年後に書かれた『どくろ杯』、『ねむれ巴里』、『西ひがし』(すべて中公文庫)とはリアリティがぜんぜん違うらしい。著者のあとがきにそう書かれているのを読んで、ぼくはそのことをはじめて知った。ぼくが『どくろ杯』を読んだのは刊行された1971年か72年ごろだ。旅から40年という歳月のオブラートにくるまれた老詩人の自伝は、またたくまにぼくの若い人生を丸呑みしてしまった。それにくらべると『マレー蘭印紀行』はたしかに様子がちがう。目の前のものを懸命に写し取ろうとする言葉のリアリティに圧倒される。そこに書かれているのは結末のわからない旅の途中であり、まるで生き物のようなジャングルの暗闇なのだ。
著者の鈴村さんはこれまでにもランボーの足取りをたどる旅をしてきた。
「ほとんどすべてのポイントとなるランボーの場所を踏査して来たこの私が、まだ足を踏み入れていない土地があるとすれば、それが詩篇<デモクラシー>の未来のモデルになったかもしれないサラティガ、スラマンというジャワ島の二つの街だったのである。」
だが鈴村さんは遠回りをする。ジャワ島のランボーに会う前に、金子光晴の足取りをたどる。バトパハ川のほとりの旧日本人クラブをたずねたり、長編詩<鮫>の舞台になったマラッカ海峡を見に行ったりする。
飛行場で長時間待たされたり、タクシーがホテルを間違えたり、行く先々の街で市場をたずねたりと、ごくふつうの海外旅行だ。けっこういいホテルに泊まっているし、移動のほとんどはタクシーだ。一つの場所に滞在する時間も短い。金子光晴の詩や文章を現地で確認しながらの旅である。著者の旅人ぶりがおもしろい。
本のタイトルは『金子光晴、ランボーと会う』だが、はたして金子光晴はランボーに会ったのか。金子光晴がジャワ島を訪れたときには、ランボーはとっくに死んでいた。金子光晴も30年以上も前になくなっている。だから鈴村さんのしてきた旅は本人たちに出会う旅ではない。ただ二人が歩いた道をたどりなおすことによって、二人の生の実態に出会えるかもしれない。金子光晴とランボーは、鈴村和成という人の肉体を借りて出会ったのだろう。
金子光晴だから文字にできた、驚嘆すべき日本語表現の世界、とくに『マレー蘭印紀行』はゼッタイのマスト