翻訳ものの紹介意欲に駆られるあまり、日本の作品や既存ファンの現状を嘆く部分が散見されるのも面白い。国内ミステリの自由度(開明的な雰囲気の有無、と言い換えてもいいが)に疑念を呈し、「ハードボイルドなどミステリではない」と主張するマニアは了見が狭いと再三再四言及したりと、なかなかしつこい。少々やり過ぎではないかと思われるほどである。
ただし、この勇み足もまた「当時の空気」であることには注意を要する。大真面目に「ハードボイルドや冒険小説をミステリに含めるのはおかしい」と語るマニアは、当時まだまだ多くいて、しかもそれなりに一般的な意見だったわけである。また、五十年代の国内ミステリ文壇において、都会的で洗練された作風の作家は少なかった。だからこそ都筑道夫は苛立ちや焦りを隠せなかったのだろう。時代の証言である。
時代といえば、ミステリ以上にSFの解説がそれを感じさせる。今ではすっかり「読みやすいソフトなSF作家」という扱いを受けるようになったレイ・ブラッドベリを、「ぺいぱあ・ないふ」で「空想力の萎縮した日本人には、高級すぎて不向きかも知れ」ないなどと言ってしまう。これはさすがに現在の認識と違い過ぎ、時代を感じさせる。
ただしだからと言って「ミステリに比べてSFに付した都筑道夫の解説は価値が低い」などと判断するのは早計だ。そもそも当時は「SF」という言葉すら一般的ではなかった。ハヤカワSFシリーズは慎重にも慎重を期して――もっとはっきり言えば、手探りで――刊行されたのであり、現代から見て多少変なところがあるのは、SFの紹介が成功したからに他ならず、むしろ喜ぶべきことである。
このように、本書は、戦後日本における翻訳ミステリや翻訳SF受容史の、第一級の資料となっている。
探偵小説というジャンルは既に戦前から確立されており、海外作品も紹介されてはいた。しかし抄訳が多く、訳者のレベルも一定していない。そして何より、戦争のために紹介が中断してしまったのである。ポケミスとハヤカワSFシリーズは、その状況を打破するために刊行された。戦前からの「功績」やら業界内のコネやらで、一部にダメ訳者を採用している場合もあるが、都筑道夫ら編集部のたゆまぬ努力により訳文のレベルも次第に改善されてきていた。ここら辺の内部事情は、都筑道夫が後に著した自伝『推理作家の出来るまで』(フリースタイル)に詳しいが、本書では、そのような舞台裏ではなく、当時から読者の目に晒されていた表舞台をきっちり見ることができる。そして読者の心に残るのは、ミステリとSFを普及せんと試みた、一人の青年――そしてこの青年は、後に作家としても成功を収める――の凛々しい姿である。
本書を読んで海外娯楽小説の紹介史を振り返るのは、それ自体、マニアのマニアによるマニアのための試みに過ぎないかも知れない。より一般的な読者には、今現に目の前にある作品が面白いか否かが大事で、昔それがどう紹介されていたかなど、二の次三の次だろう。しかし本書には、プロだろうがアマチュアだろうが、「他の読者に作品をすすめる」場合のヒントが、たくさん詰まっている。ここで都筑道夫が示したような、調査力・知識・見識・仕事量、そして何よりも情熱がなければ、「紹介」なんてできないのかも知れない。敢えて必読とは言わない。だが本書から得るものは、極めて大きいと思う。