男性原理からのしなやかな逸脱を体現してみせる女優、淡島千景。しかし、これは注意してよいことだと思うが、『淡島千景 女優というプリズム』の中で当の淡島千景は、「昔はね、女優はあんまり迂闊に余計なことはしゃべっちゃいけなかったんです」といった類の、あたかも男性から一歩退いた存在としての女、とも思わせるような発言を何回か繰り返している。そういう時代を生きた人だといえばそれまでなのだが、彼女の発言には、男性に対する対抗心も、悔しさも、ましてや卑屈さなどは感じられない。ただ厳然と「男は……」「女は……」というその区別については述べるのである。これはいったいなにか。
もう一つ気になるのは、次のような発言だ。
【「ここ行っちゃいけませんよ」と言われて、「でもどうしてもそこに行きたい」っていう好奇心、私そういうものがないのよ。「やめなさい」って言われたら、「ああ、やめればいいのかな」ってこれだけなの。だから、モノを探求するとか、そういう人たちとはちょっと違うかもしれない。】
先に挙げた「女は……」同様、淡島千景が本書で繰り返し述べていることとして、「先生(監督のこと)がやれとおっしゃることをやっているだけなの」という発言がある。上に引いた好奇心の無さ、やれと言われたことをやるだけというそのシンプルさ。
これはたぶん、謙虚さ(淡島千景の謙虚さは本書によく現れてはいるが)とは異質のものだ。言ってみれば、淡さ。淡白さ。拘泥の無さ。
淡島千景の「淡」。
濃さではなく、淡さ、としてそこにいる女優。淡島千景がどんな役でもできるのは(できてしまうのは)、淡い女優だからではないだろうか。淡さはむろん、薄さではない。薄さはやがて消えるが、淡さは長く偏在する。
【初めのうちは、作って(役の)その人にならなきゃいけないもんだと思ってましたよね。でもそれが、あるとき「それじゃあ違うんじゃないかな」と思ったんですよね。だから、「その人がここにいるようでなくてはいけない」というふうに思うようになったんですね。】
ものすごく重要なことを言っていると思うのだが、よくよく考えるとどうにもわからないことを言っている。役とは「なる」ものではないらしい。しかし「その人がここにいるよう」にするにはどうすればいいのかがやっぱりわからない。しかしたぶん、これも「淡さ」に関係しているような気が……。
妙な言い方だが、『淡島千景 女優というプリズム』の面白さは、「淡島千景がわかる!」ことではなく、むしろだんだんわからなくなる点にあると思う。インタビューの場に、淡島千景その人はいつもいる。質問をはぐらかすこともない。なにも神秘的なこともない。明朗である。それでも、多くの質問からスルリと逸脱してしまう、質問と答えが実は噛み合っていない(それはインタビュアーの責任ではまったく無い、むしろその「噛み合わなさ」を顕在化させたというべきだろう)この不思議さはいったいなにか。
いつまでもその魅力の源泉にたどり着かない、淡島千景という、この出来事の、愉しさ。