ところでこの場面、DVDで観てみると、画面向かって右側の原節子が左手に、向かって左の淡島千景が右手にそれぞれ湯呑みを持ち、そのせいで中央にオープンスペースが生まれている。で、手を降ろすタイミングは約1秒ほど淡島千景の方が遅い。これは完全に私見(あるいはこじつけ)なのだが、このわずかの「遅れ」は、さっさと嫁に行くことを決めてしまった女に対し、その女に行かれてしまう、もう1人の女の「遅れ」ではないだろうか。湯呑み茶碗の着地が寸分たがわずピッタリ同じではまるで器械体操かマイムのように見えるだろうし(実際、およそ1秒ほどの違いは、湯呑み茶碗の位置として20センチほどの目に見える違いとして現れる)、てんでバラバラでは2人の女性の間に情感が走らない。なるほど、20テイクを重ねるだけのことはある(?)絶妙のシーンなのである。
『麦秋』に引き寄せられすぎてしまったので、話を戻そう。『淡島千景 女優というプリズム』の「裏テーマ」と名付けてみたいのが、「女性性」の問題である。主役である淡島千景その人を除くとして、4人の編著者のうち、3人が女性であるのは単なる偶然とは思われない。日本映画の歴史の中で、女優であり続けるとはどのようなことだったのか、本書を読むことで考えさせられることになる。
【「女性」という存在を、「未婚の娘」としてでもなく、「母親」=「家族の象徴」としてでもなく、「女性性」そのものとしてイメージ化するということ。そうした危険な賭けに、小津は『早春』という作品であえて挑んでいると思われる。そしてその「揺らぎ」をたたえた賭けを、淡島千景は見事に体現してみせたと言えるだろう。】
御園生涼子氏のテキスト「逃げさる女/母の肖像――小津安二郎『早春』における淡島千景の“女性性”イメージ」からの引用である。娘でも母でもない、ただ女、と呼ぶしかない存在を日本映画に定着させることが「賭け」にならざるを得ないという事態は、息子でも父でもない、ただの男として無数の人間がスクリーンを横切って行ったこととの圧倒的な非対称に思いを馳せてみるとき、確かにそうだと首肯することになるだろう。
また、鷲谷 花氏の「二階の女の闘争――時代劇映画における淡島千景」は、何よりもまず、「二階に立って男を見下ろしている女」として女優を捉えるという、その視点にワクワクさせられる。理屈抜きに、まさに映画そのものが生動する見立てである。そしてそこに女の闘争を読み取っていくのはテキストの力だ。
【多くの場合、「二階の女」たちは、台所のある一階で家事労働に従事する「女房」あるいは「娘」ではなく、「商売女」である。(中略)時代劇や明治ものにおける「二階の女」としての淡島千景の意志と行動力は、もっぱら二階から「降り」、一階にあるはずの「女房」の座を占めるという目的へと向かうことになる】
としたうえで、マキノ雅弘の『武蔵と小次郎』をめぐってこう書く。
【基本的には男性スターのアクションの見世場となるはずの時代劇の「剣戟場面」としては、異例の事態が起こっている。そして、この男女の「剣戟」に「勝利する」のは、「あなたに斬られるのはいやです。私が死にます」と叫び、小次郎の腰から小刀を奪ってその望みを遂げる八雲(淡島千景の役名、引用者注)の方なのだ。
マキノ雅弘は、『武蔵と小次郎』で、「宮本武蔵」ものの定番である吉川英治版とは異なる、「色気のある私のオリジナル作品」を志向し、そのために、淡島千景の起用に「賭けてみるつもりだった」と述べている。『武蔵と小次郎』の「色気のある」オリジナリティとは、宮本武蔵と佐々木小次郎の対決物語の根幹にある「修練・対決・勝利」という男性的なプロットに対し、「惚れる」という欲望の論理のもとに攪乱を仕掛け、ついにはそのプロットを挫折に導いてしまう、淡島千景演じる八雲太夫の存在に拠るところが大きいことは明らかだろう。】