ここで、『パワーズ・ブック』(柴田元幸編/みすず書房)に掲載されている、パワーズのインタビューを引いておく。ちなみに同書はパワーズのデビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』についての論考を中心とした本です。
「我々がどのあたりの位置に置かれているのか、という問題を考えるなら、ただ単に、一人ひとりの人生が、大きな曲線のどのあたりに置かれているのかを理解するだけでは、不十分です。われわれは、自分の小さな物語が、より大きな物語と、どのように結びついているかも知りたいのです」
また言葉を換えてこのようにも語る。
「私の小説をしいて定義するならば、それは『ローカルな弧とグローバルな弧の交差について書かれた作品』ですね」
ここで「物語」「弧」と表現されているものの密度は、実はとてつもなく高い。
『われらが歌う時』に話を戻そう。
白人と黒人の結婚は、州によってはまだ認められていない時代。ディーリアはデイヴィッドと外で手を組んで歩くなど許されない。メイドに見られるよう、後ろから付いてゆく。クルマに乗る場合は目立たないように後部座席に座る。
やがて子供が生まれた。彼らは子供たちの未来に希望の橋をかける。自分の夢を追って、あなたたちは自分のなりたいものになりなさい、と。ディーリア自身、かつてはそう言われて育てられてきたのだ(幼い子供に相対する親は、多くの場合いつだってナイーブなのだ!!)。ディーリアの父親は開業医であり、黒人のなかのほんの一握りの成功者だ。しかし、ディーリアは最も志望していた声楽の学校への入学を、黒人であるという理由で拒否された。結果、声楽家としての夢は果たせなかった。
黒人たちへの初等教育に疑いを持っていたこの夫婦は、ふたりがしっかりした教育を受けていることもあり、まずは学校へ通わせずに、家庭内で教育してゆくことを決心する。きっかけとなったのは、フィリッパ・デューク・スカラーという黒人の天才音楽少女。彼女の天分は両親が教師となっての自宅学習により育まれた。このF・D・スカラーも、この時代の実在の人物。パワーズはこんなところにも歴史的事実を用意するのだ。万事がこんな調子。長男ジョナの幼い頃に、将来の可能性を確信し、声楽家としての専門教育を受けさせるべきだとデイヴィッドに勧めたのは、物理学者として親交のあった、と書けば思い浮かぶ人もいると思うが、かのアインシュタインである。
さて、人種ばかりか育ってきた環境がまるで違うこの夫婦を結びつけたものこそ「音楽」である。
はい、第一部終了(長いよ!!)。ようやく音楽の話に入れました、ここからは音楽中心でいきます。
子供たちへの教育にはもちろん音楽があり、それ以外の科目でも音楽の要素にあふれ、当然のように音楽漬けの毎日。やがて才能に満ちた長男ジョナは声楽家への道を歩み、長男ほどの主役願望を持たない次男ジョゼフは運命づけられていたかのようにジョナのピアノ伴奏者となり、幼い頃にもっとも恐るべき才能を示した三番目の子ルースは見事に期待に応えず、音楽家とはならなかった。ルースは黒人の置かれた劣悪な環境を嘆き、解放運動に身を投じることになる。パワーズは20世紀のアメリカの歴史のなかに一家を放り込んだのだ。天才三人兄弟の出世物語などには最初からなるはずがない。
さて音楽の話でした。
ジョナの声楽家としての成長物語は本作品の主軸であり、音楽に関するシーンはまさにふんだんにある。そしてこの点こそが本稿においてもっとも肝心なところなのだが、それらのシーンの描写の見事さといったら、かつてこれほどまでの表現で音楽が描かれたことがあるだろうか、と言い切ってもよいほどなのである。前述したように、凝りに凝った文体を駆使するパワーズだが、音楽のシーンにおいてその魅力はさらに光輝く。物語としての流れとは別に、優れた文章を読むことは読書の悦びのひとつだが、それがこんなにあっていいのだろうかというほど頻出する。