たとえば、声楽コンクール本選での二十歳のジョナはこう描かれる。上巻本文2頁めである。
「魔王が兄の肩にとまり、耳元で至福の死をささやいている。と思ったとたん、跳ね上げ戸が空中でばたんと開き、兄は姿をくらます。彼が引き出そうとしているのはよりによってダウランド(イギリスの作曲家)だ。ドイツ歌曲を聴きに来た聴衆に対する魅惑的で生意気な挑戦。頭上に降り掛かってくる網を理解することができず、皆呆然としている。
時間が凝視したまま静止する。
時間が凍り、凝視し、秒が、分が、時が、年月が経過し、自分の居所を見つける。
何もかも変化するが、時間だけは変わらない。
天空が己の航路を変更し、時間が彼の名前を失ってしまうまで
連が二つ。それで歌もおしまい。沈黙が会場にたれ込め、地平線を横切る風船のように客席の上空を漂っていく。強拍二つ分の間、息をつくことさえ許されない。と、そこで、これほど予期せぬ出来事に耐えるには、拍手喝采で厄介払いをしてしまうのが一番だということに皆気づく。やかましい感謝の拍手で、再び時間が流れ始める。矢は的に向かって再び飛んでいき、兄は自分の息の根を止めることになるものどもへ向かって飛んでいく。」
ジョナの悪魔的な自信と振る舞い、あっけにとられる聴衆。この緊迫したシーンは読んでいるこちらも思わず息が詰まる。ちなみに「魔王」はゲーテの詩に曲をつけたシューベルトの歌曲。
先に書いた、子供たちを家で学習させる様子も含めた家族の一日。音符が踊っているかのようなこの楽しさはどうだ。
「毎朝、子供たちが目を覚ます前から、家の中では軽やかな鼻歌が響き渡っていた。朝食のテーブルでは、皆ががやがや思い思いの調子で歌を口ずさみ、それが不思議と調和した。家での読み書き教育が始まってからも――ディーリアが読み書きを教え、デイヴィッドはコロンビア大学で一般相対性理論の講義を行う前にちょっと算数を教える日課になっていた――授業の中心には歌があった。拍子が分数の授業になった。どんな詩にもそれ相応の主旋律があるのだった。」
声楽家、つまりはクラシックの世界なので、クラシック好きの人たちには堪らない本である。そして、ここでさらにパワーズの徹底ぶりについて書かねばならない。
パワーズは、プロになったジョナに、まず正統なところとしてドイツ歌曲を歌わせる。ただし、この分野を続けてもいま一歩メジャーになれないため、次はオペラにチャレンジさせる。しかしいい役が回ってこない。ジョナは一念発起し、渡欧。ここでジョナは、なんと驚くなかれ、かのアーノンクール等との流れに呼応して古楽に転向し、名声を得る。実際のクラシック界の歴史のなかでジョナやジョゼフを存在させているということがおわかりいただけると思う。
さらに音楽ということではクラシック一点張りでは、その世界をすべて描いたということにはならない。そこでこの兄弟、学生時代には、当時最高にヒップであった音楽、ジャズに目覚めさせられる。「ヴィレッジゲート」「ヴィレッジヴァンガード」に出入りし、コルトレーンのテナーサックスの朝顔に耳を突っ込む、ということになるわけだ。ジョナと離れていた時期のジョゼフには、キャブ・キャロウェイなどのジャンプ・ブルースやスモーキー・ロビンソンなどのソウル・ミュージックもふんだんに用意されている。