2009年1月20日を過ぎて、このリチャード・パワーズ著『われらが歌う時』について紹介しようというのであれば、取っ掛かりとしてはこの人だ。バラク・オバマ、アメリカ合衆国の第44代大統領。
彼はやはり黒人なのか。オバマは、ケニアからやってきた黒人男性とカンザス州生まれの白人女性の間に生まれた。というわけで無条件で黒人ということになっている。そう、黒人の血が一滴でも混じっていれば黒人とする、というワンドロップ・ルール。
アメリカの奴隷制に端を発するこのルールは、果たしていつまで続くのだろう。世代をどんどん重ねていっても、彼らは自らの祖先のたった一人の黒人に規定され続ける。いったいいつまで彼らは(そのうちその彼らの範囲もどんどんあやふやになっていくだろうに)、そこから逃れられないのだろうか。未来永劫のワンドロップ・ルールって、果たしてあり得るのか。
200万人以上が詰めかけたあの大統領就任式典での、喜びと希望に満ちた黒人たちの熱狂ぶりを、我々は見せつけられた。「頑張れば黒人だって偉くなれるんだ」という黒人の子供たちの輝きにあふれた声を、我々は聞かされた。新しい時代へと向かうであろう眩しい光の一方で、黒人差別はなくなっていないのだなとのアメリカの陰を思い知らされる
ハル・ベリーもマライア・キャリーも「あたしは黒人よッ」と言い切っている。だから「団結しなくちゃ」というわけだ。奴隷制以来の虐げられてきた記憶が世代を超えて受け継がれるアメリカ。オバマの大統領就任に、変革を望むアメリカの本気度、ダイナミズムの凄さを見せつけられつつ、この人種問題はあまりにも根が深い。
ちなみに経済立て直しと戦争問題が急務のアメリカにおいて、2009年2月時点のいま、人種問題は政策課題にはなっていない。オバマが大統領でいる間、何かが変わるだろうか。
『われらが歌う時』で描かれるのは、少なくとも黒人の大統領誕生などおよびもつかなかった時代の20世紀のアメリカ。第二次世界大戦前夜に出会った男女とその子供たちの物語だ。
男は故郷に親族を残したままナチの迫害を逃れてアメリカにやってきたユダヤ系ドイツ人の物理学者デイヴィッド・シュトロム。女は声楽を学ぶ黒人ディーリア・デイリー。子供たちは、長男ジョナ、次男ジョゼフ、最後に長女ルース。この先どこまで続くのか誰にもわからないだろう黒人差別が、いまよりももっと厳しかった時代の黒人の家族の壮大な歴史。
白人であるデイヴィッドと黒人であるディーリアは、1939年4月9日、復活祭の日、ワシントン・リンカーン記念館前でのマリアン・アンダーソンの屋外コンサートにおいて、7万5千人の聴衆のなかのふたりとして出会った。マリアン・アンダーソンは実在の黒人の歌姫だ。黒人であるがゆえに屋根付きの会場を借りることが叶わず、結果として歴史的なフリーコンサートとなったこの日のことは、歴史的な事実である。
このシーンを含めて、前世紀のアメリカ黒人差別をめぐるエポック的な出来事は、およそ有名な出来事についてはほとんどのことが描かれているといっても言い過ぎではないだろう。本書の根幹には、まずは歴史的な事実がある。そしてその描き方は、まさにいまそこで起こっていることを目を見開いて観察しているかのごとく微に入り細かに入り圧倒的にリアルだ。時と場所を瞬く間にスイッチする音声・動画対応のグーグルアース。20世紀の物語であるが、そんな未知のテクノロジーを駆使して書かれたかのような圧倒的な臨場感があるのだ。
著者リチャード・パワーズは、この俯瞰の目を駆使し、1939年4月9日のワシントンにぐんぐんフォーカスしてゆき、ふたりの出会いのシーンを書き上げた。
こうした幾多の歴史的な出来事のなかに、リチャード・パワーズはシュトロム家の家族をどんどん放り込むのだ。物語としては、家族が常に事件の現場に居合わせるわけにはいかない。しかし、彼らは、直接ではないにしても、その事実に常に絡めとられている。考えてみれば当たり前なのだ。現代において、私たちはいつも世界のなかの私たちであるからだ。
そして、主役であるシュトロム家の人間を描くために、人間を描く際とまったく同等の綿密さで、パワーズは世界を描く。現代の物語はこうして書かれなければならないのだとの、パワーズの確信ゆえの手法である。
その綿密な凝りに凝った文体とともに、凄まじい博識ぶり、さらに語彙の驚異的な豊富さも、パワーズならではの特徴だ。およそこれまでの文学作品では登場したこともないであろう科学的な用語も駆使し、その文章の強度はまさに鋼のごとし。パワーズは学生時代に物理学者を目指していたそうな。さもありなん、彼の作品は理科系文学なのだ。