このところ、よく話題にのぼるゲーテッドコミュニティー(ゲーテッドマンンション)も、こうした排除的な思考が定着していることの証明だろう。確かに、経済的/社会的に排除された人々には不満の種が宿り、それが犯罪となって表現されることも少なくない。そういう人々が入りこめないように塀を回し、厳重なセキュリティーによって、自らを閉じこめることで、安全に暮らせるに違いない、と考える人々をもはや笑えないところにまで、この国は来てしまったことだけは確かだろう。『夷狄を待ちながら』(J.M.クッツェー/集英社文庫)さながらに、やってくるはずのない野蛮人が外から攻めて来ると信じ込む大佐と同じように、彼らも信じたいのだ、野蛮人は常に周縁にいて、中心のわれわれを狙っていると。それはささやかな、自らが野蛮人でないことの証明であるかのように。
ところがセキュリティーを強化し、警察が監視を強めても犯罪は減らない、とヤングは反論する。なぜなら犯罪は「相対的剥奪」の結果であり、その原因であるのだから。
最近の事件を思い起こしてみよう。ある種のクラスの人間しか入居できないようなマンションの住人が隣人の女性を殺害してバラバラにしたり、ウォーターフロントのしゃれたマンションに住む有名広告代理店の社員が実はレイプ魔だったり、医大生がレイプ犯だったりと、「ゲートの中の人々」の犯罪はいまではことさら珍しいことではなくなってしまった。
にもかかわらず、リスク評価を基準に、不審者の「奴ら」をあらかじめ排除・分断・隔離してゆく、保険統計的な犯罪予防政策が賞賛され、ささいな反社会的な行動も、犯罪の予兆であるとみなして、厳格に摘発してゆこうとするゼロ・トレランス政策がいまだに幅を利かせているのが現実である。
ヤングはさらに文化論的視点から排除型社会を分析してみせる。排除型社会は「差異」に対して寛容な社会であり、社会に個人主義と多元主義が浸透し、絶対的価値の権威が崩壊し、差異と多様な個性が重視されるようになったという。しかし、そのことによって、人々が依拠してきた価値やアイデンティティを失うことになり、存在論的不安(生きていることに対する不安)に陥っていったと見る。人々はこの不安から逃れるために、自らが属する集団に絶対的価値を探すようになる。人々は過去へと回帰し、家族を再構築し、本質にしがみつき、そこにアイデンティティを見いだそうとする。そして、支配文化への同化主義と分離主義(多文化主義)が同時に進行し、それは結果として同じ結論を導き出すことになってゆく。他者(特にエスニック・マイノリティ)との境界を定め、距離をとり、他者を悪魔化し、包摂不可能な(困難な)人々として周縁化してゆく結果になる。
ヤングは、こう言う。「シングルマザーやアンダークラス、黒人や放浪する若者、麻薬常習者、クラック常習者などの、コミュニティで弱い立場にある人々が、針で突つき回され、非難を浴びせられ、悪魔のように忌み嫌われるようになった。このような新たな排除の世界にあって、本当に革新的な政治をおこなおうと思えば、私たちを物質的な不安定と存在論的な不安の状態に置いている根本原因、すなわち正義とコミュニティという基本問題を避けて通ることはできない」。