「近代」とは、信じるに足るなにか――人類が犠牲を厭わず、努力さえ惜しまなければ、この地上から差別、貧困、不自由、不平等さえも撤廃できるという「大きな物語」――が確かにあった時代だった。近代を牽引していたものこそ、この「大きな物語」だった。
こうして平穏に暮らせるだけの権利と存在の条件が整うに従い、犯罪を冒す「逸脱者」の存在も変質してくる。前近代の「危険な階級」は近代においては単に「個人的逸脱」として捉えられるようになり、逸脱者に再教育を施し、更生させ、ふたたび社会へと取り込むことのできると考えられるようになっていく。社会は寛容さを身に着け、「包摂」へと向かっていったのである。
ヤングは、近代を準備したものこそ生産システムとしての「フォーディズム」だと指摘する。フォード(危機的状況にある、あの自動車会社!)が20世紀初頭につくりあげた大量生産、大量販売、大量消費のシステムは、第二次大戦後、人々が夢見る豊かさのモデルを提供していく。標準化された製品が大量につくられ、男性の完全雇用がほぼ達成され、正規雇用・終身雇用といった約束された未来が人々の目の前に広がっていた。人々は安心してお金を使えるようになり、買い物を楽しむようになっていく。そうしたライフスタイルは、1950年代、60年代のアメリカン・ホームドラマ「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などの中に、見事に具現化されていたのである。クルーカットの少年が自転車を庭に乗り捨てて、キッチンに入ってくるなり、大きな冷蔵庫からこれまた大きな牛乳壜を取り出してごくごくと飲む姿が子供心にもひどくまぶしかったことを思い出す。それは日本に限ったことではない。当のアメリカでさえ、こうしたドラマは勤勉に働きさえすれば、こんな幸福を手に入れることができるという記号を、流布していったのである。
しかし、こうした「包摂型社会」はあっけなく終焉を迎える。市場競争が厳しさを増すなかで、企業はコスト削減のために、ダウンサイジング(小型化)やアウトソーシング(外部化)を押し進めていく。それをあと押ししたのが、新自由主義の流れである。政府を小さく(ダウンサイジング)し、民間に裁量権を与え、経済の比重を民間に移して(アウトソーシング)いこうとする思想であり、有体に言えば、民間企業のやりたいようにさせて、目に余る場合だけ叱るぞ!というような夜警国家への指向である。そう、あの小泉/竹中ラインがやろうとしていたのは、まさにそういうことだったのだ。企業は首切りが面倒な正規雇用を縮小させながら、企業の思い通りになるパートや派遣などの非正規雇用を拡大させてゆく。その結果、なにが起こったかといえば、構造的な失業状態に置かれたアンダークラス――日本でなら、ニートやワーキングプア――を大量につくり出し、労働市場からの「排除」したのである。ヤングの言うアンダークラスは俗に言う下層階級一般ではない。グローバル経済によって構造的に生み出された人々であり、他国の労働者に職を奪われ、福祉に依存するか、犯罪に走るしかない、都市のゲットーに取り残された人々である。
こうして後期近代に突入した70年代以降は、様々な次元で人々を格付けして分断する排除型社会へと着実に進んでゆくことになる。「排除」はつぎの3つの次元で進行していった。
(1)労働市場からの経済的排除
(2)市民社会の人々のあいだで起こっている社会的排除
(3)防犯・安全対策の名の下に進められる犯罪予防における排除的活動
歴史家のエリック・ホブズボームを引用して、ヤングはこう言う。それが「世界が方向感覚を失い、不安定と危機にすべりこんでいく歴史」のはじまりだったと。
われわれは、「豊かな社会」にいるにもかかわらず、大多数の人々のあいだで「相対的剥奪感」が広がっていくことになる。わかりやすくいうなら、それぞれのクラス内に「わたしは誰かのために割を食っているのではないか?」という意識が蔓延していくということである。そうした他のクラスへの猜疑心が、彼らを排除へと駆り立てたのは当然であった。ヤングはそれを「保険統計主義」というタームを使って説明する。保険統計がリスクを算定するように、起こるかもしれないリスクの可能性を積み上げ、それをヘッジする方法として、排除しようとするのである。そこには確たる証拠があるわけではない。ただ貧困層は犯罪者予備軍だと一方的に見なしているだけなのだ。富裕層はこう考えるのだろう。街には貧乏人が溢れていて、わたしたちの財産や命を狙っているに違いないと。