林氏はこう述べる。<自衛隊については創設当時から「軍隊であって軍隊ではない、日陰の存在」といった評価がついてまわってきた。(中略)どうしてこんなことになったのかという問題を掘り下げていくと、戦後日本の与党政治家=保守陣営の中で、「安保体制維持か、自主防衛か」という論争に決着がつかなかったことに行き着く>
自衛隊を「違憲」と断じていた三島由紀夫は、いわば「自主防衛」という自らの理想に殉じたのだろう。が、軍服姿で決起を叫ぶ三島由紀夫には、自衛隊員から「馬鹿野郎」と罵声が浴びせられたというエピソードを引きつつ、林氏は「三島由紀夫はなぜ死んだか」と題された章を、以下のように結んでいる。
<三島は自衛隊に対して、「自らを否定する憲法を守るのか」と問いかけた。個人的に、三島の行動に心を動かされた自衛官は間違いなくいただろう。しかしながら、防衛庁・自衛隊という組織にとっては、三島があの日、市ヶ谷のバルコニーで訴えたことなどまったくもって大きなお世話だったのである>
このくだりと、先の田母神論文をめぐるすったもんだを引き比べずにはいられない。田母神氏も憲法を改正して自主防衛に踏み出そうと主張するわけだが、航空幕僚長といえば航空自衛隊のトップであり、つまりは「自衛隊という組織」そのものである。三島由紀夫の死後およそ40年を経て、その魂は蘇ったのだろうか。
しかし、日本政府が対米従属という安全保障上の哲学を変えたわけでは決してない。防衛相は「大きなお世話」とばかりに即刻、田母神氏のクビを切った。田母神氏は非常に驚いたふうだった。私には逆に、自衛隊が現実感を欠いた、浮世離れした存在になってしまっている証しのように見えた。
林氏は「国防の、泣ける真実」という章の中で、自衛隊の兵器、装備の調達方針がいかに場当たり的かを述べている。例えば、装甲車には6輪駆動と8輪駆動の二つがあるなど、欧米の軍隊のように共通する車体をベースに必要に応じた機能を持たせた派生型を造ることをしないため、生産コストがバカ高になるという。林氏は<「とにかく米軍が使っている、ああいうのが欲しい」といった駄々っ子じみた兵器調達要求を繰り返してきた。国情に適した兵器を、できるだけコストを抑えつつ揃えようといった発想はどこにもなかったのだ。けだし自衛隊は「戦力なき軍隊」ではなく、軍事常識を備えていない軍隊であると、私は思う>と厳しく指摘するのだ。
こういう論調を目にすると、私も含めた大方の自称「護憲派」は、「それ見たことか、自衛隊」とすぐ有頂天になってしまいがちなのだが、自戒を込めて言えば、自衛隊バッシングをすれば憲法9条の平和主義が守れると考えるのは、愚かなことだろう。幹部中の幹部が文民統制を忘れるほどに自衛隊がなってしまったのも、私たちが自衛隊をずっと「日陰の存在」に押し込め、しっかり見定めてこなかったのが一因ではないのか。
林氏には別に『反戦軍事学』(朝日新書)などの著書があり、今回紹介した『防衛黒書』でも<「戦争に反対する人ほど、ちゃんと軍事について勉強するべきだ」と訴え続けているのである>と述べている。私は、この考えに全面的に賛成する。
2003年に自衛隊のイラク派兵が始まった。護憲派はもちろん大反対したが、このとき使われた「日本はアメリカに守られている。そのアメリカの頼みを無視してイラクに自衛隊を送らなかったら、北朝鮮が攻めてきたとき誰が守ってくれるのか」という詭弁に、一体どれくらいの人がきちんとツッコミを入れられただろう。