もちろん、なんたって片岡義男なのだから、こうした理論的な(?)考察ばかりでなく、チャーミングな実践だっていっぱい散りばめられている。料理が出てくるまでのあいだ「ケチャップの瓶を逆さに立てておく」(瓶の中に滞ったケチャップを集中し、すぐにかけられるようにするためだ)ことがもっともアメリカらしい食事の仕方であること。ショーケースに入っているナポリタンのウィンドー・サンプルを蒐集することを思い立ち、そのためにはバスを利用して車窓ごしにチェックするのが最適ではないかと結論すること、etc……。
『ナポリへの道』によれば、日本社会で戦後、スパゲッティ・ナポリタンが最も危機に瀕したのは、あのバブルの時代であったらしい。イタ飯、と呼ばれたイタリアンが大流行し、猫も杓子も、という状況にあって、「ナポリタンなんてスパゲッティじゃない」という時代が確かにあったのである。筆者の記憶でも、それは間違いなく、あった。自戒と反省をこめて書くのだけれど、つい最近まで「パスタ」などという言葉を口にしたことのなかったはずの連中が、平気でナポリタンをバカにしていた愚かな時代が存在したのである。
片岡義男という人がエラいと思うのは、あのバブルの時代にナポリタンはもう消えた、と思っていたけれど、それは消えたんじゃなくて「見えなくなっていた」だけなんだということを認める経緯である。バブルが弾けて日本が沈んでみれば、いつのまにかナポリタンは浮上していた。ナポリタンはただずっとナポリタンだっただけなのに。そのことを仕事仲間(編集者?)から指摘され、街を歩いてみて「ナポリタンを出す店はけっこう増えてきているようだ」と確認し、自分が間違っていたことを面白がって認める片岡義男は素晴らしい、と思う。
思えば片岡義男という作家は、いわゆる文芸批評家と言われる人々が、もっとも取り扱いに困窮してきた存在である。多くの批評家は、バブル期の日本人がはなっからスパゲッティ・ナポリタンをバカにしていたように、読みもせずに片岡義男をバカにしていたはずで、これは厳然たる事実である。1997年、『日本語の外へ』(単行本は筑摩書房。現在は角川文庫で読めます)という、650ページもある長編評論が忽然と登場し、無視できない批評の書き手として認知されてから、みんなあわてて読み出した。でも、その小説のどこがいいのか、よくわからなかったようで、今日まで「片岡義男論」はほとんど書かれていないのが現状だ。
いい小説はいくつもあるけれど、1冊だけオススメを挙げるなら、『人生は野菜スープ』を。「貸し傘あります」「馬鹿が惚れちゃう」なんて、タイトルだけ見ても「いいに決まってる!」と言いたくなる傑作短編集で、なかでも「給料日」という短編は、どんなハードボイルド小説も青ざめる真のハードボイルドで、傑作中の傑作だと思います。
あ、しまった、角川文庫のは絶版かな? BOOKOFFなどで比較的カンタンに買えるはずですが。
でもその前にこの『ナポリへの道』をぜひ! あ、あと「ナポリタンなら、ぜったいあそこが旨い」というお店を知ってる方、教えてくださいネ。