1970年代、日本の喫茶店にスパゲッティは2種類しかなかった。ミートソースとナポリタンである。いやそうじゃない、オレんとこにはボンゴレもあったよ、と反論される向きもあるかもしれないが、それは極めて例外もしくは先鋭的もしくはスカした店であって、正当なる街場のサ店では、ミートソースとナポリタンでじゅうぶんであったのである。
さてそれで。1978年、9年ごろ、北関東のショボい地方都市の高校生などにとっては、学校帰りにサ店に立ち寄る、という行為はほぼ最大級の娯楽に属した。レモンスカッシュをレスカと称して注文するようなバカ(極限的にはずかしい…)と連れ立って週に一度はそうした店にいそいそ出かけていたけれど、すべてが末端・底辺・微温的な日々の中で、スパゲッティ・ナポリタンを食べる日は、これはもう、ちょっとした「ハレの日」だったと思う。
ミートソースじゃなくてナポリタン。時にはミートソースに浮気することもあったけれど、基本はナポリなのである。理由はいたってカンタンで、ミートソースだと物足りないから。ミートソースの場合、皿全体の中央にミートをからめたソースが乗っており、それを混ぜて食べるわけだけれど、「ただそれだけ」という感じが否めない。そこいくとナポリタンは、ベーコンや玉ねぎ、ピーマン、マッシュルームなどがケチャップとともにスパゲッティにまぶしてあり、出てくる時にはすでに「全体感」「ボリューム感」を獲得していて、そこんとこが高校生の胃袋にアピールする。個人的に、ミートソースが女子、ナポリタンが男子というイメージをぼくは持っていて、それは女子の食べもの、男子の食べもの、ということではなく、料理そのものに性別があるような……、ま、そんなことはどうでもいいか。
で、やっと本題であります。片岡義男著『ナポリへの道』。食に関する個人史がそのまま戦後史に連絡し、さらには「日本」が見える。本の帯に「スパゲッティ・ナポリタンに日本がある!」という惹句が踊っているけれど、一言であらわせばまさにそういう本で、この本の担当編集者さん、ハイ、それバッチリです。
ナポリ、というのはいうまでもなくイタリア南部の一つの都市名にすぎず、それがいかにして「スパゲッティ・ナポリタン」という大衆性=普遍性を持つにいたったのか。著者には、言ってみれば記憶、舌、思考と3種類の触手があって、それらを総動員してスパゲッティ・ナポリタンをめぐる様々な対象に迫っている。スパゲッティ・ナポリタンを考えることは、すなわち小麦を考えることであり、トマトとは何かを考えること、ケチャップという特異な製品がいかに完璧なものであるかを再確認することである。そこには、著者が「オキュパイド・ジャパン」と表現する占領下の日本の経験があり、アメリカの光と影が射しているようだ。
生まれて初めてスパゲッティ・ナポリタンを食べた時の記憶を咀嚼して、著者はこう書く。
赤い色がケチャップだということは、見ればわかった。色だけでなく、かなり強く漂ってくる香りもケチャップのものだった。僕にとってアメリカ食品のなかでもっとも不思議な、この世のものとも思えないほどに幻想的なケチャップが、スパゲッティ・ナポリタンという完璧なまでの日本のなかにいっぽうの主役として取りこまれ、少なくともその外見上では、その能力の限度いっぱいに見事に機能しているではないか。(中略)
オキュパイド・ジャパンのなかで知ったアメリカの食品のなかで、もっとも不思議で幻想的なものだと自分が位置づけたケチャップが、オキュパイド・ジャパンが少しずつ消えていくのと入れ違いにあらわれてくる次の日本のなかで、もはやそのなかに完璧に取りこまれ、日本そのものとして、スパゲッティ・ナポリタンのなかで機能している様子に、僕は驚いた。オキュパイド・ジャパンの次に登場した、まったく別の日本へのイニシエイションが、僕にとってはスパゲッティ・ナポリタンとなった。