と、厭世的な気分でいたときに出合い、目を覚まされたのが、『檀流クッキング』である。著者の檀一雄氏を今さらここで紹介する必要はないと思うが、そもそも私には檀さんについて何か語る力量はない。私にとっての「檀さん」とは、ずっと連想ゲームの「檀さん大和田さんは、檀さん」の檀ふみさんだったし、有名な「火宅の人」など、いまだに読んだことがない。
しかしこの本は、同じ中公文庫に収められた『美味放浪記』(併読をお勧めします)とともに、もう何度読み返したか分からない。例えば「イワシの煮付け」の項にこうある。
〈鍋の底に、つぶし切りにしたショウガと、ダシコンブを敷いておいて、淡口醤油と梅干を二粒三粒たんねんにソギ切りにしたもので味をつける。酒を少々とコップ半分ぐらいのお茶を注ぎ入れ、醤油の味を薄めながら、中ブタをして煮るが、どうしてお茶を加えるんだか、私はその原因をシカとは知らない〉
私は読んでいて、うれしくて仕方がなくなるのだ。私を悩ましてやまない「しょうゆ50cc」が全然出てこないからだ。「コップ半分ぐらい」、このあいまいさが何ともいえない。それからコップだってどれくらいの大きさなのか、一切書いてない。もし、仮に「何cc入るコップなのでしょう」と直接聞けたとしたら、檀さんは「うるさいな。台所のそのへんに置いてある、いつも水を飲むコップだよ」と怒り出すかもしれない。
「ロースト・ビーフ」は、この文庫本を片手に生まれて初めて作った。〈牛肉の、ヒレかランプか、それができなかったら、せめてモモ肉の上等を、六〇〇グラムばかり、きばって買ってくる〉とあったので、モモ肉にした。それも確か500グラム程度で済ませた覚えがある。自分の都合に合わせてもいいのだと思えるところが、「檀流」のすぐれた点だ。普通のレシピのように「ロース1キロ」などと書いてあったら、私は「ロースを1キロ用意しないとロースト・ビーフは作れない」と思い込み、貯金を取り崩しに走らないとも限らない。
われながら感心したのは「クラム・チャウダー」を作ったときである。なぜなら、この料理は実に面倒くさいからである。まずアサリを買ってきて、砂をはかせ、湯がいたら煮汁の中で殻を外す。
一方、フライパンでベーコン(お湯で塩抜きしてからみじん切り)とたまねぎを炒め、小麦粉を足してさらに炒めておいたのをアサリの煮汁で延ばして……と、書いているだけで疲れてくる。
普通であれば、絶対に作らない料理だ。私には勝手な基準があって、手順の中に「蒸す」あるいは「裏ごしする」、二つのどちらかがあった場合、その料理には手を出さないことにしている。小麦粉を炒めてルーを作るなんていうのも限りなく禁忌に近い。
ところが、〈私は、からっ風の寒い日に、ニューヨークのセントラル・ステーションの地下街で食べたクラム・チャウダーのぬくもりを、今だって、忘れない〉といった旅情にあふれる筆致や、〈小さなハマグリがあったら、きばって二皿買ってこよう。ハマグリがなかったら、アサリで結構で……、いや、はじめっから、アサリ二皿ときめておいた方がよさそうだ〉なんてユーモアに触れるや、一丁作ってみようか、と思い始める。小麦粉も炒めてやろうかという気になる。
この感覚は何かに似ているな、とずっと心に引っかかっていたのだが、やっと分かった。
子どもが本を読むとき、ルビに頼りながらもいつの間にか難しい漢字を覚えていくさまと重なる。もし本から漢字だけを取り出して、さあ覚えろといわれたら、子どもには苦痛だろう。しかし、ストーリーを夢中で追いかけていく中で、縦横斜めの線がつながった変てこな模様に意味を見つけることができるようになる。
同じように、軽妙なエッセイを純粋な読み物として楽しむうちに、私たちは頭の中で「檀流クッキング」を追体験し、学習しているのだ。