たまに思い立って台所に立つことがある。炒め物、煮物とほぼ難なくこなすが、苦手なのは味噌汁だ。というのも、味噌をどれくらい溶き入れればいいのかが分からない。
そのたびに家人に「味噌の量は?」と聞く。家人は「適当」と答える。私は少しカチンときて「適当、では分からないでしょ」と言う。すると家人も「少なめに入れて味を見て、薄かったら足せばいいでしょ」と気色ばむ。
ああ、そこなのだ。私は「味を見る」のが嫌いなのだ。なぜって、味を見たら、味が分かってしまうではないか。
少し説明が必要かもしれない。私にとっては「いただきます」と言ってから、「さあどんな味がするものか」と料理に箸をつけるまでの、内心に沸き上がるわくわく感こそが、食事の醍醐味なのである。誰が作ろうが関係はない。私は私自身を喜ばせるために、料理の最中に決して味を見ない。
だが、それでは時としてとんでもない味に仕上がる恐れがある。だから、私は「レシピ」を正確に守ることを心がけてきた。料理本や新聞の切り抜きをにらみつけ、例えば「しょうゆ50cc」と書いてあったら、間違っても55cc入れたりしない。二十歳そこそこで一人暮らしを始めたとき、炊飯器はまだなかったが、計量カップと計量スプーン(大・中・小)は持っていた。
が、正直言って、レシピを守るのを「面倒くさい」と思うことはある。大概の料理の手引きは個条書きになっている。例えば、(1)ニンジンとダイコンは乱切りにする、(2)鶏肉は筋切りをしてからブツ切り、(3)中華鍋にゴマ油を引き(1)と(2)を炒める、(4)(3)にだし汁を張って煮立たせる――といった具合だ。
順序立てて説明をしたつもりだろうが、丁寧さがあだになって、熱した鍋を前に往々にして「あれ、(2)って何だっけ」と焦りまくるはめになる。加えて、前述したように「しょうゆ50cc」とか「砂糖20グラム」とか、調味料を正確に測って投入しなければならない。神経のとがらせ方といったら、それはもう普通ではない。
ところが、である。細心の注意を払って手順をこなしたと思ったら、「最後に塩、こしょうで味を調えます」なんて書いてある。しょうゆと砂糖の量はきっちりと守らせておいて、なぜ「塩、こしょう」だけは適当でいいのか。私はいぶかるのである。
画竜点睛を欠くという言い方があるが、最後の「塩、こしょう」の量を間違えたら、誰が責任を取ってくれるのか。二階に上げておいてはしごを外す、とはこのことであろう。
となると、最初の「しょうゆ50cc」の根拠も怪しくなってくる。さらに言えば、レシピを正確に守ることによって担保されるはずの、私が手がける料理の味付けもまた、あやふやなものになってしまう。
そのことに気づいてから、私は実際、レシピをあまり守らなくなった。しょうゆを多少多めに入れたって、しょうゆの味が濃くなるだけで、ケチャップ味になるわけではない。どうせこれまでも、レシピをきっちり守っていることに安心して「うまい」と信じ込んで食べていたのだ。人間の味覚など、しょせんその程度の、いい加減なものなのだ。けっ。