ジョン・クラカワーを突き動かしたものはおそらく、「知りたい」というシンプルな欲求だけだったと思う。その欲求の強さこそが、容易に結論に飛びつかない、自身の気持ちの鉾を収めようとしない、「~でない」「そうではない」という否定形の実践の連続を生んだのではないか。
映画『イントゥ・ザ・ワイルド』と『荒野へ』には、それぞれ決定的な写真が一葉ずつ使われている。『荒野へ』のほうは、本のカバーに見られる雪をかぶったバス。かつてはフェアバンクス市の交通システムのものであったことが確実なインターナショナル・ハーベスター社の1940年代もののクラシックカーだ。まさにこのバスこそが、1992年9月6日、マッカンドレスの遺体が発見された場所である。『イントゥ・ザ・ワイルド』のほうは、ラストから2つ目のカット、カメラの中に未現像のまま残されていたクリストファー・ジョンソン・マッカンドレスその人のポートレート。少なからずやせ衰えた肖像ながら、そこには柔和な笑顔がある。
ちなみに映画のいちばん最後のカットは…… いや、これも書かずにおこう。
興味を持たれた方は、原作と映画と、ぜひとも両方を体験してみてほしい。本はジョン・クラカワーの、映画はショーン・ペンの、それぞれの「作家」による「別物」でありながら、そこにはなにかしら共通したヴァイブレーションがある。たったいま思いついた言葉だけれども、それはおそらく「本物」というものの取り扱い方ではないかと思う。
「本物」。クリス・マッカンドレスは、自然や世界についてじっくり考えるために荒野へ入って行った。クラカワーも書いているように、荒野の中で長い間自分自身を見つめる者は同時に、外部に対する緻密な理解がなければその土地のものだけを食べて生きていくなどということは到底できない。かなりのところまでそうした生活を維持してきたマッカンドレスは、しかしやはりこの「外部に対する緻密な理解」に欠けるところがあったのである。にもかかわらず、まるで生まれる時代を間違えたような、あたかも巡礼者のような24歳の青年がやろうとしていた行為はまぎれもなく「本物」だという感触を、本と映画は共にそれぞれのアプローチで捉えている。
そしてその感触は、マッカンドレスを非難する人々の血液の中にも、怖れ、のような形で伏流しているに違いないのである。