『荒野へ』では、マッカンドレスと直接係わった人々の数々の証言が紹介され、彼の辿った軌跡が再確認され、この事件がどう報道されたか、どのような非難の声が寄せられたかをつぶさに検討している。むろん、1冊の本を書くというのはそういうことであり、調査や取材、フィールドワークはノンフィクションに不可欠の要素だけれども、むろんそれらはありあまるほどの情熱と時間があればそれでいいというものではない。全部で18の章から成るこの本の中の、14章まで進んだところでクラカワーは、若き日の自身の経験と、その頃に感じたことを率直に書いている。そこには、マッカンドレスとの明らかな共通項がある。父親との関係がそれであり、マッカンドレスにとっての「荒野」にあたる「山」への制御しがたい指向がそうだ。
しかしもちろん、クラカワーは「そんなオレにはこの若者の気持ちがわかる」と書くほど知性の低い書き手ではない。プロローグでもないエピローグでもない、18章中の14章目という中途半端な位置に自身の回想を置くというそのリアリティこそが、クラカワーの手にしていたオリジナリティであり、それ以外のすべてを、綿密な事実の調査と粘り強い思考にあてている。これは完全に推測だが、14章まできて、「ああ、これはもしかしたら、やっぱり自分のことを書かなくてはいけないかもしれない」と感じたのではないか。執筆前にあらかじめ全体の見取り図を俯瞰し、14章あたりに回想を織り交ぜることが効果的である、という計算によるものとは到底、思えない。また、書くつもりもなかった自分自身の経験をつい、吐露してしまうというのとも違う。取材を続けながら、原稿を書いたり消したり、構成したりながら、ただ「しっくりくる」かどうかだけを基準にした結果なのだろうと思う。
『荒野へ』の真骨頂は、一つひとつ丁寧に、「そうではない」と書いていくクラカワーの否定形の手つきにあると思う。著者は基本的なスタンスとしてクリス・マッカンドレスに理解と共感を寄せながら、いくつかの行為について「ミス」「軽率」「無謀とも言えるほど不注意」と容赦なく書く。と同時に「無能な男ではなかった」と付け加えることを忘れない。自身の若い頃との類似を考えることは、「マッカンドレスと私は同じではない」と冷静に認めることである。世論の非難に対してはむろん「そうではない」という立場をつらぬき、しかしそれらの非難には何の根拠もない、と拒絶することもしない。
圧巻なのは、ねばり強い取材の過程で、事実として「そうではない」と言える証拠をクラカワーが2つ、突き止めたことだ。1つは、マッカンドレスがせっかく仕留めておきながら、肉の保存法を誤ったために(それも、人から教わった方法を頑なに信じた結果だったが)台無しにしてしまった獣の肉のことである。マッカンドレスはその獣をヘラジカだと信じていたけれども、マッカンドレスの遺体の発見者となった地元の2人のハンターは、「あれはたしかにカリブーだった」と断じた。「奴がヘラジカを撃ったつもりでいたことを新聞で読んで、アラスカの人間じゃないとすぐにわかった。ヘラジカとカリブーはひどくちがう。実際、まったくちがうんだ。そんな区別もつかないようじゃ、かなりの間抜けにちがいない」。
この話をうけてクラカワー自身も、先の「アウトサイド」誌の記事では「ヘラジカではなかった」と書いてしまっている。ところが。その後、骨を詳細に調べ上げた結果、マッカンドレスが撃った動物は、まぎれもなくヘラジカであることが判明したのである。
クラカワーがつかんだもう一つの事実はマッカンドレスの死の原因に直結する重大なものだが、これについては書かずにおこう。「そうではない」を追求し続けた著者が、その事実に到達するまでのスリリングな記述をまるごと受け取っていただきたい。