中年の、いやむしろ初老と呼んだほうがよさそうな1人の女性がベッドでうなされている。「いま確かに、あの子の声が聴こえたの。夢じゃない、ハッキリ聴こえたんだってば」。ベッドに駆け寄る夫は、興奮状態の妻をなだめようとする。そして観客はすぐに理解するだろう。この気の毒な場面は、おそらく今夜が初めてではなく、これまで幾度となく繰り返されてきたであろうことを。
いま全国で公開中の映画『イントゥ・ザ・ワイルド』は、このような場面から始まる。作品の冒頭から深い悲しみと疲労がある。映画において冒頭シーンにベッドが来るとすれば、それは通常、事件や怪奇の起点になるか、あるいはセクシャルなほうに転ぶかということになるはずだが、『イントゥ・ザ・ワイルド』は、事が起こってしまった後の容赦ない日常をそこに置く。もう、「それ」は起こってしまったのであり、物語としてはここからどこにも動かないものを最初のシーンに据えたのは、むろん監督であるショーン・ペンの聡明さと誠実さの現れであり、彼が「ヒーローもの」を撮る気などないことを示していると思う。
「荒野へ」と、直球・直訳で日本の読者に供された1冊の本が『イントゥ・ザ・ワイルド』の原作である。作者はジョン・クラカワー。ジャーナリストであり、作家であり、そして登山家でもあるクラカワーは、自身も当事者の1人だったエベレスト(チョモランマと書くべきか?)の遭難事件を描いた『空へ』の著者でもある。
『荒野へ』は、クリストファー・ジョンソン・マッカンドレスという24歳の青年が引き起こした出来事をめぐるノンフィクションである。マッカンドレスは、大学を卒業すると同時にさしたる装備もなく単身、アラスカの荒野に足を踏み入れ、およそ4ヵ月後、うち捨てられたバスの中で腐乱死体となって発見される。この青年は文明社会の側からなにかを持ち込むことを努めて拒否し、食糧も、その土地が与えるものだけを獲って生活してみようと考えた。それは、今まで自分が育ってきた家族の放棄であり、通常の意味での社会生活の放棄である。マッカンドレスの父親は元々NASAの技術者を務めていたような優秀なビジネスマンで、世間的に見ればマッカンドレスは、ワシントンDC郊外の裕福な家庭で何不自由なく育った坊ちゃんでしかなかった。その若者がなぜそんな無謀な行為をしたのか? メディアがそこで示したのは、ご他聞に漏れずスキャンダラスな記事であり、思慮のない若者に対する世間の非難が集中した。
ジョン・クラカワーがこの事件に触れた最初も、「アウトサイド」という雑誌の依頼記事だったという。依頼に応じ、9千字の記事が掲載された「アウトサイド」誌がニュース・スタンドから姿を消し、世間がこの事件をすっかり忘れた頃、しかしクラカワーの心にはなにかしらまだひっかかるものがあった。一つにはマッカンドレスが餓死にいたる顛末がどうにも気にかかること。そしてもう一つは、自身の若い頃とマッカンドレスのある種の類似性である。