そして「わたし」は彼を呼び戻すために死者の町へと旅に出る。その途中でなんともふしぎな事件が次々に勃発。「〈ドラム〉が打ちはじめると、それは、まるで五十人の男が一斉に打っているような音をたて、〈ソング〉が歌いはじめると、まるで百人の人間が一緒に合唱しているようで、また〈ダンス〉がおどりはじめると、赤ん坊もおどり出し、妻もわたしも精霊たちも、〈ダンス〉と一緒におどり出してしまった。つまりこの三人を見聞した者は誰でも、そのあとをどこまでもついて行かないではおられない気持に誘いこまれるのだった。わたしたちもみなその例にもれず三人のあとをついて、一緒におどっていった」。
それにしてもいったいなぜ、肌の黒いナイジェリア人のエイモス・チュツオーラ(1920-1997)が、1952年という時期に『やし酒飲み』で、それも、あのピジン~クレオール文体で、イギリス文壇から評価されるかたちでデビューしたのだろうか? しかも版元はイギリス、フェイバー&フェイバー社で、当時あの白人文学びいきの差別的伝統主義者T.S.エリオットが顧問を務めていたのである。
なるほど、第二次世界大戦後から現在までは、英文学が英語文学へと解体してゆく過程であり、逆にいえば、植民地主義とともにある女王陛下の国の肌の白い人たちが長く独占していた文学の座を放棄し、水平に広がる新たな地平のなかで文学の新しい可能性を新しい担い手とともに模索しはじめるダイナミックな変化のはじまりだった。変化はまず旧植民地出身の作家の登場の認知とともに生まれ、それは白人以外の作家の英語で書かれた小説の誕生と発見だった。それはたとえ白人であってももはやヨーロッパの白人とは異なった自意識をもって小説を書く第三世界の作家の台頭をうながした。(1)
しかし、チュツオーラを、こうした流れの先駆者と呼ぶことには、ためらいが残る、なぜなら、チュツオーラはけっしてチヌア・アチェベやベン・オクリと(あるいはV.S.ナイポールと)"同じような意味で"、作家であるわけでは、ない。きょくたんにわかりやすく言うならば、チヌア・アチェベやベン・オクリを知性と自意識、表現の戦略をそなえた岡本太郎に喩えるならば、(そう、岡本太郎はマルセル・モース率いる宗教学~社会学~人類学とシュルレアリスムの蜜月のなかで近代芸術の脱構築を学んでいる)、対するチュツオーラはいわばジミー大西である、すなわち天然であり、自分のやっている表現が社会的にいかなる意味をそなえているかに対する考察も自意識などなにもない、ただひたすらあらかじめ爆発しているのである。
むろんこれはこれですばらしいことではあるけれど。もっとも、二十世紀イギリス詩をリードしたエリート的マイナー出版社フェイバー&フェイバー社をわれらが吉本興行に喩えるわけにはさすがにいかないが、いずれにせよ、チュツオーラはジミー大西のように、プロデューサーがこしらえた枠組に乗ったことで、がぜん無限に輝いたに違いない。逆にいえばもしもプロデューサーなしの素では、吉と出るか凶と出るかまったくわからない、危なっかしくてしかたない、しろものである。むろんここではふたつのタイプの才能の多寡を論じているわけではなく、表現に対する自意識のある/なしのはなしである。じっさいチュツオーラは(自力で発表の場を獲得したというよりも、むしろ)イギリス人によって素敵なフォークアートとして見出され、イギリス人によって商品価値を見出され、世界市場に売り出された。ここにチュツオーラの作家としての人生の悲喜劇がある。『やし酒飲み』はイギリスやフランスではエリート文学者たち(ディラン・トマス、レイモン・クノー)に絶賛をもって受け入れられ、他方ナイジェリアにおいてはブーイングと総スカンだったそうな、(アフリカの後進性というステレオタイプにつけ入る隙を与えたとして)。