しかもチュツオーラの登場の後、アフリカはそれまでの植民地を脱し、独立へ向けて雄雄しく立ち上がった、1960年はアフリカの年である。むろんその後の歴史および現在をもいささかなりとも知っているわれわれは、とうてい手放しではよろこべないこともまた知っているけれど。いずれにせよ、その後のチヌア・アチェベやベン・オクリや、あるいは肌の色こそ白いものの、そしてヨーロッパ文学の広い教養をもちながら、自らをアフリカーンスと規定するクッツェーの世代にとって、前世代のチュツオーラは、自分たちとは、おそらくきびしく峻別しなければならない存在であるに違いない。
だがしかし、だからといってチュツオーラの作品を斬り捨ててしまうとしたら、それもまたあまりに惜しい。ましてやナイジェリアの進歩主義者でもないわれわれが、チュツオーラを切り捨てる必要などありはしない。チュツオーラの作品には、楽天的な幸福があり、想像力の解放がある。すがすがしいまでの内面の欠如、陽気な楽天性、素敵なばかばかしさ、創造性に満ちた脈絡のなさ、それらを賞賛せずにはいられない。しかし、である。しかし、こうした賛美は、はたして「バカで、まぬけで、幼稚で、せいぜい想像力に富んだ、罪のないアフリカ人」というイメージづくりの強化に貢献することから、いかにして免れ得るだろうか? ここはやはり問題として残る。(ちなみにこうしたイメージづけは、歴史的に〈女〉が被ってきた運命と同じである、そう、「バカで、まぬけで、幼稚で、せいぜい想像力に富んだ、罪のない、かわいい娘」というようなイメージづけと。)しかもチュツオーラの側には、まったくそういう意思はないのだから、いっそう不憫である。チュツオーラ、才能にあふれ、なんともお人よしな人物、お気の毒である。
繰り返すが、それにしてもいったいなぜイギリス、フェイバー&フェイバー社は、なぜ、1952年にチュツオーラを売り込んだのだろう? 大英博物館に象徴される異国趣味だろうか? いや、それもあるには違いないが、それだけではないだろう。時はまさに、第二次世界大戦後。イギリスはインドをしぶしぶ手放したとはいえ、まだ植民地政策を棄ててはいない。そして植民地政策は、諜報活動を必要とする。ちなみに文化学および文化人類学もまた、諜報活動の範囲である。たとえば日本のはなしに置き換えるならば、ドナルド・キーン(1922-)やエドワード・サイデンステッカー(1921-2007)は、日本文学の国際的評価の獲得に貢献した人物であったと同時に、かれらの仕事は、ルース・ベネディクトが、第二次世界大戦におけるアメリカ軍の日本理解に貢献すべく、研究した(後に『菊と刀』として結実する)日本文化研究と同じカテゴリーに属してもいただろう。ジャパノロジストをたんじゅんにお人よしの親日家たちと考えるのは間違っている。
イギリスの例をあげれば、サマセット・モーム(1874-1965)は、第一次世界大戦中にスパイにスカウトされて以来、三十余年にわたって、作家活動と平行して、イギリス政府のためにスパイ活動をおこなった。こうした二十世紀理解の立場に立ってみれば、チュツオーラの出版もまた、(作家本人の意思とは無関係に)出版元のイギリス側に、ナイジェリア支配のための文化戦略があっただろうことが察せられる。つまりチュツオーラは魅力にあふれていたということだ、イギリス人がかれを拉致し、利用したくなるほどに。