ばかな、と人は言うだろう。親切なスーツ姿の男が実際にいたか、単に道端で眠り込んで夢を見ただけだ。そうかもしれない。ただ私にとっては、私は天使を確かに見たし、私にはやるべきことがあると信じられることが大事なのだ。
寝て夢を見ているときには、大方はこれは現実だと信じて疑わない。頭蓋骨に閉じ込められ、闇の中にある脳みそにとって、夢と現実は同じ電気信号から生まれるもので、両者を区別できない。実社会で現実と非現実がごっちゃになっては混乱のもとである。では、なぜ脳はそんな紛らわしい仕組みになっているのか。
それは恐らく、人間にとってはそもそも夢と現実を区別することに、あまり意味がないからだろう。そう考えると、なぜ寝ているときに頭に浮かぶ映像と、覚醒した心に描くあこがれの未来像を乱暴にもいっしょくたに「夢」と呼ぶのかが分かる気がする。信じれば、夢は現実になるからだ。
パウロ・コエーリョ氏の最新邦訳『ポルトベーロの魔女』の本の帯には「『アルケミスト』『ベロニカは死ぬことにした』に連なる“喜び×情熱×犠牲×愛”の物語」とある。ということは、今回同時に紹介することになったこの3冊は、いわば「三部作」に近いということだろうか。
コエーリョ氏は『アルケミスト』で、夢を追い続けることがいかに自分の心を傷つけ、それだけに多くの人は夢の入り口にさしかかったところで、早くも夢をあきらめてしまうさまを描いた。『ベロニカは死ぬことにした』では、夢を追いかけることこそが自分の人生を生きることなのだが、大方の人は他人と違った振る舞いをして異端視されるのを恐れて、夢を封じ込めてしまう。それが心を病ませるのだと解き明かしてみせた。では、コエーリョ氏は『ポルトベーロの魔女』で、夢に生きる人間の、どんな魂の挑戦を写し出したのだろうか。
主人公の若い女性、アテナは週に一回、ロンドンのポルトベーロ通りにある一室で、集まった人々に「奇跡」を見せていた。ダンスを踊ることで自らをトランス状態にし、「ハギア・ソフィア」と名乗るもう一つの人格を浮かび上がらせると、すべてを見通す千里眼を発揮し始める。本人が気づいていない前立腺がんを指摘して命を拾わせたり、ホモセクシュアルであることを隠している男性には「カミングアウトしなさい。女は嫌い、好きなのは男だって」と言って絶句させる。
うわさはうわさを呼び、アテナが主宰する「儀式」には、一度占ってほしいと願う人と、「悪魔を呼んでいる」と決めつける伝統的な宗派を支持する人たちが押しかけ、大騒ぎになる。いつの間にか、アテナは「ポルトベーロの魔女」と呼ばれるようになっていた。
が、そんな周囲の喧騒をよそに、アテナは忽然と世を去る。殺されたというのだが、詳しい事情はよく分からない。物語は、謎に満ち満ちたアテナという女性の短い一生を、生前の彼女とかかわった人々への綿密なインタビューをつなぎ合わせることで、描き出していこうとする。
無論、アテナの「肉声」は一切出てこない。すべては話者の記憶の中にあるアテナの言動である。ある事象にさまざまな角度(理想は360度)から光を当て、その全貌を浮かび上がらせるのは、ジャーナリズムの手法だ。この本の帯に、物語の登場人物とおぼしき(名前が微妙に違う)女優やジャーナリストの談話が短く引用されて載っている。あたかもドキュメンタリーのような体裁だが、彼らはもとより、「ポルトベーロの魔女」が実在したのかどうか、不勉強にして私は知らない。これはフィクションなのか、それとも……。