と同時に、アイデンティの危機という主題の系列も潜んでいる。まず、冒頭に現れる「自分の背丈と湯船の大きさが合っていない」というイメージが、そのアイデンティティの不安定の隠喩である。そしてこの隠喩が、やがて<自分の書いたピアノ曲>を自分自身で演奏できないラヴェル」に、そして「字が巧く書けず、書体が崩れ、自分のサインさえきちんと駆けなくなってしまうラヴェル」のイメージへと変奏されてゆく。そう、意識としての自己が、自分自身をコントロールできなくなってゆく、昏い主題のメインテーマとして変奏されてゆくのである。
なんて巧みにコントロールされたイメージの変奏曲(=小説)だろう。しかもその記述には、なんともどくとくの軽さがあって。即物的記述もかかわらず、そこはかとなく感じられる、温めの温度のユーモアがあって。しかも詩を徹底的に排除した果てに、はじめて現れる、詩と等価の美質が生まれている。この小説の主題が、<悲劇を禁じられた現代人の生>であることは疑い得ない。ここでゲーリー・スナイダーの『悲劇の終焉』に繋げて、この小説を論じることもできるだろう。しかし、そういうふうに論じてしまうと、また、小説を読むたのしさは逃げてしまう。訳者の関口涼子さんの訳文はたいそう読み良い、わかち書き、リズム、句読点まで音楽的で、訳書の魅力をかけがえのないものにしている。関口さんは、日本語で、そしてフランス語で詩を書いている人だそうな。
■ジャン・エシュノーズ(Jean Echenoz,1947年12月26日-)は、フランス出身の小説家。 南仏オランジュ生まれ。社会学を学んだ後、日刊紙リュマニテに短期間携わる。1979年、デビュー作『グリニッジ子午線』を刊行。今日までにミニュイ社から以下のような小説を発行している。
『グリニッジ子午線』(原著1979年 未訳)
『チェロキー』(原著1983年、白水社刊)
『マレーシアの冒険』(原著1986年、集英社刊)
『われら三人』(原著1992年 集英社刊)
『ぼくは行くよ』(原著1999年 集英社刊)
『ピアノ・ソロ』(原著2003年 集英社刊)
『ラヴェル』(原著2006年 みすず書房刊)
なお、ラヴェル・ファンは以下の本を読み合わせるといっそうたのしいとおもう。
ウラディミール・ジャンケルヴィッチ『ラヴェル』白水社刊、 アービー・オレンシュタイン『ラヴェル生涯と作品』音楽之友社刊 、 マニュエル・ロザンタール著『ラヴェル その素顔と音楽論』春秋社刊(あいにく品切れ中)なお、ジャン・エシュノーズさんは、2008年4月17日、早稲田大学文学部の講演会のなかで、 Marcel Marnat著"Maurice Ravel",(Fayard, 1986)をおもに参照したことをコメントしてらした。
また、青柳いづみこさんは『水の音楽』(みすず書房 2001年刊)のなかで、ラヴェルの音楽に、ユイスマンスの『さかしま』、ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』の系譜にある、人工の美学を見ておられます。
彼女が言うには、ラヴェルは歌のある作曲家であり、生来ロマンティックな資質があるけれど、それと同時に、ラヴェルにはなみなみならない含羞に拠る反作用がある、「いわば、抑制することが彼の裏返しのロマンティシズムの発露である、とでもいうように」なんてことを書いてます。同じく青柳さんは『音楽と文学の対位法』(みすず書房 2006年刊)のなかで、ラヴェルをレーモン・ルーセル(かれは音楽家でもあった)と並べ、ふたりの感受性にきわめて親近性を感じるという意味のことを書いておられます。もっとも、ラヴェルとルーセルのあいだに「親交を結んだ形跡はなく、お互いがお互いの作品を好んだという話もまったく伝わってこない」としつつ。