ここでいう「指針」とは、2007年2月に文化審議会(会長は小説家の阿刀田高氏)が文部科学相に答申した「敬語の指針」のことだ。「指針」を読むと、確かに先述したような場面では、謙遜表現として「とんでもございません」を「用いることができる」とし、逆に「とんでもないことでございます」を使うと、上司が自分を褒めた行為そのものが「とんでもない」と受け取られる恐れがあるので注意せよ、と書いてある。つまり、この場合、「とんでもございません」は許容の対象というより、むしろ第一選択なのである。
お局さまにしてみたら、2階に上がってはしごを外された気分だろう。梶原さんが「裏切り」と言うゆえんである。しかし、梶原さんはこの「指針」がとんでもない、とは思わない。逆に大歓迎している。実は梶原さんは以前から、「とんでもございません」を使っていたのだ。
<もちろん、「正しい敬語」とは異なることは承知でした。それでも生きた言葉としてならば「とんでもございません」でいいじゃないか、と思った>
この、敬語を「生きた言葉」としてとらえている、ということが大事である。
「指針」については、従来「尊敬語、謙譲語、丁寧語」の3種類だった敬語を、「尊敬語、謙譲語Ⅰ、謙譲語Ⅱ(丁重語)、丁寧語、美化語」と5つに細分化したことがもっぱら報道され、話題になった。「何だかよけいややこしくなったなあ」という印象しかなかったのだが、この本に触発されて、遅ればせながら「指針」を読んでみると(インターネットで「文化審議会、敬語」と検索すると簡単にダウンロードできる)、非常に新鮮なのだ。
「指針」によると、今日の敬語は「基本的に平等な人格を互いに認め合う社会」にあって、「人と人が相互に尊重し合う人間関係」を作るためのものだ。
上司や部下、先輩と後輩、恩師と教え子、といった「上下関係」が存在することを前提にしつつ、それでも上司であれば部下の立場に配慮するのが当然とする。
そういう中で、敬語を一定のひな形に当てはめて、固定的、絶対的に使うのは間違いだ、と「指針」は断じるのだ。例えば、「植木に水をやる」と「植木に水をあげる」のどちらが正しいか、とよく議論になる。「指針」によれば、「やる派」は「あげる」という本来へりくだる言葉を植木に使うのは間違いだと考える人で、「あげる派」はすでにへりくだる意味は薄れていると考える人だ。別にいずれが正しい、とは述べられていない。どっちでもいいのである。